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ひろかずニュース 平成29年7月15日UP 
      
☆ひろかずニュース第73号発刊☆

 6月の週末は雨も多く、また、気温も低かったのですが、7月に入り、7月を飛び越して、8月の猛暑の日となってしまいました。
 連日、30度前後となってしまい、『暑いねぇ〜』が挨拶となっていますが、自身としては、暑いのはキライでは無いし、また、暑さには、強い方だと思っていますが、最近は、「歳」のせいでしょうか。以前より、弱くなって来たのか、はたまた、体調の具合というか、ケガと持病によって、「この夏はキビシイなぁ・・」と感じています。

7月8日、午後から社協の講演会があったので、参加して来ましたが・・・いゃ〜暑い、の一言でしたぁ〜。ちなみに、講演は、勉強になりました。
 
 6月末頃だったかなぁ・・・庁舎の案内板が変わったのは気がつきましたか?写真は、2階に上がった所で、正面玄関は、さらに変わっていました。
 
 さて、6月の定例会が終わって、ニュースの作成に入り、また、その週は、北海ソーラン祭りという事で、それなりに忙しかったです。
 そんな背景の中で、4月に転倒してケガをしたヒザは、正式には、右ヒザ裏の十字じん帯切断でした。そして、手術等はしないで、自然に完治するのを待つ事となりました。
 そんな状況ですので、不意な動き、となれば、激痛が走り、また、たま〜に、ヒザが抜けるような場合もあって、それでも、余市祭り、ソーランパレードもなんとか、こなしていました。

 そんな中でのニュースの作成と、さらには、今回は、通常のニュースの他に、9ページ程、余計に作成して、これを配布しています。
 一つは、第2回目の会派報告会のチラシでA4片面。また、A3の両面で会派会報のNo2の発行。そして・・・・これまたNo2ですが、余市神社奉志会の会報もA3の両面を作成もして、それぞれを配布している事から、この作成に時間と手間がかかっています。
 
 ニュースが完成したのは7月5日なのですが、この暑さもあって、なかなかPCの前に座っての作業が進まないのも現実です。

正面玄関を入って、住民票等の申請用紙の所の机に、庁舎全体の案内板が設置されましたが・・課の新設や廃止があった場合は、やっぱり、作り直すんでしょうねぇ。
 
 そして、その向かいには、町内中心部の案内看板も新に設置されていました。この看板には、各会社の広告も入っており、実は、設置前に、設置業者さんから打診がありました。毎年、それなりの金額がかかるようなので、「パスします」と返事をしました。作成時に必要なのはわかるけれども、毎年、一定金額を負担して行くのは、どうなんでしょうかねぇ?



 いゃ〜今年は、事故・ケガに泣かされる年になったようで、これまた、持病の尿管結石も、なんか、最近、「石が動いているなぁ・・・」と感じています。

 正直、何が原因で痛いのか、何が原因で調子が悪いのか・・・事故?持病?天候?・・どちらにしても、複合的に関連していると思いますし、それに、プラス議員活動となれば、やっぱり、無理がかかっていると感じています。


 さて、6月の定例会は、何事も無く・・・終わったのですが、議員任期も半分を迎えようとしています。
 余市町の議会の常任委員会編成は、前期後期と分けている事から、8月末に、委員会の再編成が行われます。
 つまり、7月8月の委員会は、取り残した問題があれば、片付けていかなければならない期間となります。
 民生環境常任委員会を預かる自分としては、今後、数回の委員会を予定していますが、自身として、常任委員会の委員長職を預かったのは初めてでしたが、おそらく、他の常任委員会より、町内の視察は多数、行った、つまり、町中に飛び出て活動した委員会であったと自負していますし、また、条例改正の付託案件の審議も多かったと思っています。
 
 条例付託の委員会での委員会の進め方としては、委員長として、「提案の可決・否決は別として、想定される事項の質問を出させる」と言うことに注視して運営をして来たつもりです。
 委員長である事から、質疑は出来ませんが、他の委員に「こういう質問をしてみては?」と時にはヒントを与え、また、時には「この質問を出してほしい」というお願いもしました。
 想定される事項を出し切って、その上で、本会議での委員長報告の時にも、他の議員が『なるほどね〜』と理解出来るような委員長報告をするように努めて来たつもりです。
 
 これが、けっこう頭が痛い・・というか、この辺をどう持って行くかが、委員長の腕の見せ所。と考えています。

 この時期の風物詩・・・天気の良い日は消防署員による、お化粧直し〜消火栓のペンキ塗りですね。乾く前に触ったら、悲惨でしょうねぇ〜
 
 写真は暗くてわかりずらいですが、役場3階に、他議会の行政視察の準備がされていました。マッサン効果は、今も続いている。という事ですね。でも・・・・クーラーも無い庁舎で、さらに、暗くしなければならない。という事は、熱気がこもる・・・という事で、視察に来る人も、汗・汗でしょうねぇ〜。お疲れ様です。


 今、議会改革が色々と言われており、また、今回のニュースの本文の中には、議員による報告会の件が掲載されています。
 この場では、触れませんが、余市町議会は、改革度の低い議会としてランク付けをされています。ですが、今、いわれている議会改革の内容については、議会運営上、実践して来た事が大半であって、それを外部評価が出来る、つまり、第三者が客観的に見える形となっているのか。という事がランキングの対象となっているから、低い位置となっています。

 実際にどう、委員会等を運営してゆくのか。そして、議会改革は、どういった視点で行うのがベストなのか。という点について、さらには、政党・会派、そして、議員(委員長)の考え方もあります。

 少なくとも、自分は、余市町の議会議員の中では、改革を含めて、議員の発信という点については、余市町の議員の中では、最先端を行っていると感じています。


☆ひろかずニュース第73号☆

余市町議会、会津若松市訪問
 通常、議会・議員での出張の場合、先進地への行政視察という事で、研修がメインとなっています。そして、本州地域への視察の場合は、委員会単位で行くことが多くなっています。
 今回の会津若松市への訪問は、委員会という枠組みではなく、各会派の代表者という枠組みでした。もう少し、細かくいえば、正副議長と議員会会長である吉田豊議員、また、余市町議会には5会派があるために、各会派の会長5名と会派割りの関係で、民友クラブのみが幹事長も参加することとなり、会派の幹事長である私が参加する事となりました。
 これに議会事務局からも局長と次長の2名が参加という事で、総勢11名での訪問となりました。つまり、「委員会の行政視察ではない」という事となり、では、訪問する目的は何か。という事となります。

 今回の会津若松市の訪問の基本的な考え方ですが、次の通りの考え方の下、出向くこととなりました。

 平成27年10月に、会津若松市と親善交流書の締結をしており、会津・余市を結ぶ"ゆかり"を大切にし、この"ゆかり"を次の世代へと引き継いで行くために、住民意識の高揚をはかり、住民間の交流促進を目指す。
 教育、文化、産業、観光などの交互の交流を進めるにあたり、意志決定機関である議会の役割が肝要であり、意義深いことであると考えます。
 その上で今後の交流を議会として支援(バックアップ)してゆくためにも、両議会において、意見交換・情報交換等、相互の交流・連携を促進し、議会同士の友好交流が出来るような関係となり、両市町の繁栄と発展に寄与して行くための、その第一歩として。

 では、なぜ、親善交流書の締結に至ったのかという点ですが、ドラマ『マッサン』放送以後、今でも、会津若松市を含めた会津地方に縁のある方が、余市町を訪れており、訪れると『余市町内での会津藩士の足跡を見たい』と希望される方が多くおります。
 余市町と会津藩士の関係ですが、戊辰戦争によって、会津藩は敗戦国となり、主要な藩士たちは母国を追われる形となりました。
 北海道を開拓する目的で、会津藩士の一団が明治2年に小樽に上陸。紆余曲折があり、明治4年〜5年に、藩士とその家族約800名が余市町の未開の地を開拓する事となり、余市川をはさみ、東側は現在のニッカ沼近辺から余市駅近辺及び登街道沿いを開拓し、後に黒川町と命名しました。西側は田川橋から山田改善センターを中心にした地域を開拓し、後に山田町と命名しました。
 そして、会津藩士たちはリンゴ栽培にとりくみ、明治12年に民間で初となる西洋リンゴ(現在のリンゴ)栽培に成功。余市町を含む後志管内におけるリンゴ・ナシ・ブドウの生産量は、北海道内で収穫される総量の半分以上を収穫する地域となっています。
 リンゴ栽培に成功した事によって、昭和に入り、ニッカウヰスキーが創業されると、ニッカ創成期は、特産品のリンゴでジュースを作り、ウィスキーが出荷出来るまでの期間を乗り越えた事は、歴史上の事実です。

 『あなたは、どこの出身ですか?』と質問された時、以前の北海道人は、先祖の出身地を答えたはずです。ですが、今は、『出身は北海道です』という人が圧倒的になってきたと思っています。
 元々、北海道人は、先住民族であるアイヌ民族しかおらず、いわゆる和人は、江戸末期からの住民で、定住年数としても200年程度です。
 ですが、本州地域は、千年を超える歴史・風土・文化があり、会津という国は間違いなく、日本の中で歴史に刻まれる地域であって、明治に入り、旧会津藩士が多数入植した地域は、青森県の斗南地方、そして余市町、それに続くのは札幌の屯田兵という事になると、私は考えています。

 会津藩士の足跡は、町内の各所に目に付く形で石碑や記念樹も多いのですが、その石碑や記念樹の由来を含めて、知っている方と、そして、会津地方から訪れた方に対して、この事実を語れる方が、何名いるのか・・・といえば、今は数名の方しかいないと思っています。
 これらの経過の中、これからの地域がどうあるべきなのか。同じ、お付き合いをするとしたのであれば『縁の深い者どうし』というのは、これは自然の流れだと感じています。
 さらに、『八重の桜』『マッサン』等で、両地域への関心も高まり、その流れによって、会津若松市・余市町との親善交流書の締結がされ、数年前から、一年おきに中学生が夏休みに行き来するようになりました。そして、昨年は会津市民の方が100名余り、余市町を訪れ、町内に宿泊されていかれました。
 これらの流れをさらに加速するために、議会としても、交流を深め、議会なるが故に、町の政策決定にあたり、議会・議員としての提言等をしていかなければならない。という事であって、その第一歩でした。

 さて、会津を訪問して、さらに、会津若松市議会の方とも、懇親を深めてきたと感じておりますが、自身の感想としては・・・
 まず「やはり歴史が違うなぁ」と感じました。これは、単に城下町である。という事だけでなく、市内全体というか地域一帯として感じられ、さらに、『ならぬことはならぬものです』との教えのとおり、その精神というのが、行き交う人々にも感じられました。「正に見習うべき所は、たくさんある」と感じてきました。
 ただ・・・・「いゃ〜遠いなぁ・・」と感じたのは事実で、今回の移動ルートとしては、余市町役場→町のバスで→新千歳空港→仙台空港→電車で→仙台駅→新幹線で→郡山駅→電車で→会津若松駅→会津若松市内のホテル。というルートで、待ち時間を含めた移動時間だけで8時間は超えていました。
 『それは遠いわ。一般的には、新潟空港を使いますよ。新潟の方が、便数も多いから』と、会津若松市議会の目黒議長のご意見を頂きました。

 さて、今回の日程は、移動日を含めて5月15日から17日までの3日間で、16日に会津若松市議会を訪問させて頂き、午前中は市役所で意見交換。午後は市内の視察。という日程でした。
 訪問の目的が『今後の議会同志の交流促進に向けて』という事であり、市役所での意見交換の際、私にも意見を求められたので、「正しい歴史を後世に伝えてゆく必要がある。書物には多くの間違いも見受けられ、例えば、歴史家を互いに派遣して、突き合わせて行く必要があるのではないか」という意見を述べさせて頂きました。
 この背景としては、過去に出された書物の正確性。さらには、近年においては、インターネットの普及によって、間違った史実でも、一度、ネット上に出されると、それが正しいもの。として、以後、定説となってしまう可能性があると考えています。ちなみに、私は歴史家でもなく、さらに古文書を読める訳でも無いのですが、「えっ、そうなの?これ違うんじゃぁないかなぁ」と思う書物もあります。
 訪問した他の議員が、どんな考え方を持っていたのかは、事前に話し合った訳でも無く、議会改革についての話題を出した議員もいました。ですが、「今回の訪問テーマと違うだろう」と感じていましたし、議会改革は、自身で実践し、自ら修正していけば良いものだと、私は考えています。

 午後は市内の視察という事で最初に『鶴ケ城』、次に会津藩の歴代藩主の墓地である国指定史跡でもある『会津藩主松平家墓所』を見ましたが、やはり歴史というか「単なる大名とは、まったく違うなぁ」と改めて感じました。
 そして、3カ所目は萱野権兵衛氏の墓碑参拝をしました。これは、私が出発前に提案して、いわばリクエストした場所で、その理由として、余市町黒川町の高橋配管さんの横にある『旬節碑(じゅんせつひ)』は、萱野権兵衛氏の、功績を称えた石碑である事から、「会津に行ったら、墓参りしましょう」という提案でした。
 萱野氏のお墓はお寺の敷地墓地の一画にあり、距離的にはさほど遠くありませんが、高低差が大きく、歩くにはかなりキツイ所でした。
 そして、墓地・墓所を見ても、北海道とは大きく違い、一群の一家の墓石群が、同じ敷地内あり、墓碑は別々で、また、名前は、代々に継承される名前であって、それを見分けるのは、墓碑の横に掘ってある年で見分けるそうで、ガイドの方がいなければ見分けがつかない所でした。
 最後は飯盛山という事で参拝をして来ました。飯盛山で自沈したのは白虎隊士中二番隊ですが、明治4年に余市町に入植した中には、白虎隊関係者では士中二番隊半隊頭であった佐藤駒之進信明氏、白虎隊寄合一番隊の小隊頭であった在竹四郎太隆保氏らの名前もあります。

 歴史はパズルであって、一つ分かると、全体が繋がる。という事もままあり、新たな発見があれば、次に繋がる可能性もあり、そして、現地に行って、解けた疑問もありました。
 私としては、様々な課題と、今後の進むべき方向を、再認識して来ましたし、また個人的な事項ですが、会津の磐梯山の麓の猪苗代町が私の祖父のルーツであり、意義深い訪問となりました。
 これらの経過によって、平成29年第2回(6月)定例会において、決議案第1号『余市町議会と会津若松市議会との友好交流宣言に関する決議』として提案され、可決されました。
 余市町議会が、議会独自で決議と宣言をするのは、おそらく、初めての事であり、内容は、別記の通りとなっており、今後、会津若松市との交流を通していきながら、余市町の発展のためのヒントが得られればと考えております。


余市町議会と会津若松市議会との友好交流宣言に関する決議
 旧会津藩士団が開拓のため明治4年に余市町に入植し、その後、明治12年には未来無いで初となるリンゴ「緋の衣」の栽培に成功し、今ではわが町を代表する特産品となっております。
 また、りんごの木、りんごの花は、町のシンボルとして町木、町花に制定されており、今日の余市町の礎を築かれました。
 このような歴史的なご縁により、平成27年10月14日に余市町と会津若松市との間で親善交流都市として交流書が締結され、今後、教育、文化、産業、観光など相互の交流を促進することが確認された所であります。
 こうした現状に鑑み、二元代表制の一翼を担う議会としても、これまで行政視察等を通じ交流を進めて参りましたが、一層の親善交流を進めてゆく上からも、両市町の各分野における行政課題の認識とともに、執行機関に対する有効な政策提言、さらにはお互いを結ぶゆかりを長く後世に引き継いでゆくためにも、議会同志の交流は極めて重要です。
 よって余市町議会は会津若松市議会と友好交流議会として連携し、両市町の繁栄と発展のため、なお一層交流を促進していくことを、ここに宣言する。  
   以上、決議する。平成29年6月23日 北海道余市郡余市町議会



右ひざの靭帯の損傷をしてしまいました
 前号のひろかずニュース72号が完成して、配布を始めて間も無い、4月13日の夕方に、某所で転倒してしまいました。
 建物の玄関先の段差で、段差の端に右足の甲がひっかかり、バランスを崩したのですが、その段には、縁の保護のために、鉄板がついている段差で、この鉄板にひっかかったのでした。
 その鉄板は、ある程度の年数が経過していたようで、先端の方の接着が取れていて、右足と一緒、持ち上がってしまいました。
 そのような体勢でバランスを崩した事によって、両足を揃えたまま、右足に左足が覆いかぶさるような形で転倒してしまいました。
 元々、右足は静脈炎の持病を持っていたために、「やってしまったぁ!」と思い、まともに歩けない状態となってしまいましたが、出先だった事もあり、痛くないフリをして、出先の方と話して、帰って来ました。
 その夜は、膝を内側に曲げると激痛が走り、翌日、病院に行くと、『ワーファリン(静脈炎の関係で常用しています)飲んでる?うーん、内出血しているなぁ。とりあえず、血を抜いて、出血が止まってから再度、診断』との事となりました。
 その日は、足の付け根から足首まで、曲がらないようにするニーブレスという器具を装着の上、松葉杖という事となってしまいました。
 一週間ほどで、松葉杖無しでもよい状況となり、また、足首までのニーブレスも、とりあえず、外せるようになり、MRIでの診断となりました。
 結果『後側のじん帯、切れているね。でも、今は手術しないのが主流で、筋力で自然回復を待つしかないだろう』との意見で、その通りにする事としました。
 現状の治療としては特にしておらず、ヒザを保護するための短い補助具を装着しているだけです。

 会津若松市への訪問、また、余市神社例大祭では、神社役員として神輿行列に参加をしており3日間で約5万3千歩程を歩きましたが、通常の歩行には支障はないのですが、段差や階段の上り下りには支障があります。
 そして7月1日には、ソーラン祭りオンパレードにも参加しましたが、草履で踊りながらのパレードが一番キツかったです。
 これにより、ニュースをお配りするのが、思うように出来なくなってしまいました。楽しみにされておられる方も多いのですが、お詫びと、ご理解を賜りたく存じます。


平成29年6月定例会
 第2回定例会が告示され6月20日より23日までの間、開催されました。
 今回の定例会の議案は、一般会計の補正予算の中では、6次産業にかかわるワインツーリズム関係の予算が多くなっています。また、農業振興に伴う事業費も多くなっておりますが、これらの事業の財源としては国から来る予算となっています。
 町の独自事業として予算額が多いのは、増加が見込まれる空き家住宅除却費補助金の追加と図書館の暖房ボイラーの取り換え工事が計上されています。
 この他の議案では、乳幼児医療費の助成に関する条例の一部改正が提案されました。詳細は後段に掲載していますが、現在、医療費の助成は12歳までとなっていますが、15歳まで拡大する改正案となっており、所管の民生環境常任委員会に付託されて審議されます。
 このほか、第三セクター、3社の決算が出そろったので、決算書の議会承認が求められました。
 また、任期満了に伴う人事案件で、人権擁護委員、農業委員16名の同意議案(詳しくは後段に掲載)が提出され原案の通りに同意がされました。
 この他、前掲の通りに会津若松市議会との交流宣言決議、意見案の採決が行われ、混乱もなく、当初の日程通りに定例会は終了しました。

 さて、昨年9月定例会から、定例会開始前に、定例会の日程を記したポスターを公共施設を中心に張り出しており、今回で一回りをした事になります。
 ポスター啓示の目的は『議会傍聴に来て下さい』というものですが、ポスターを張り出しての効果は、表れていないようで、今回の定例会においても、4日間を通して、傍聴の方は1名のみでした。
 『今の議会は見てもしょうがない』と思われるのか、『興味があるけれども、日程等が合わない』という事なのかどうかは、よく分かりませんが、魅力ある議会とは、いかなるものなのでしょうか。ご意見を頂ければ、大変、有り難いです。
 尚、私は今回の定例会に当たり、一般質問は@余市町史について。A中学校における運動系のクラブ活動について。の2問を提出しました。


次期農業委員が決定しました
 今回の定例会において、人事案件として、農業委員16名の任命同意の議案が提出されました。
 農業委員は、独立した組織で、農地の保全や移動に関しての権限を有しており、農業委員会の許可が無ければ、農地の売買や地目変更、さらには自己所有の農地内での建物の建設についても許認可権を持っています。
 委員の任期は3年間となっており、今までの委員の選任については、各種団体から推薦される委員と、選挙で選ばれる委員とで組織されていました。
 余市町の場合、推薦される団体として議会より2名の他、農協、農業共済組合、土地改良区から各1名で、合計5名となっておりました。
 選挙で選ばれる委員は、公職選挙法を準用しての選挙で行われ、立候補資格者と有権者は農地を持っている住民が対象となっていました。
 選挙の仕方としては、通常の議員選挙と同じやり方で、告示日に立候補届けを提出し定員をオーバーすれば、5日間の選挙期間を経て、投票が行われますが、最後に投票が行われたのは、昭和59年7月15日でした。
 この時の選挙人登録名簿上における有権者総数としては2080名で投票率は92%台で、17名を選任しました。尚、平成27年3月31日の有権者数としは1063名となっていました。

 今回の農業委員会の選任ついては、平成27年9月に公布された法律第63号で、『農業委員の選出方法を、選挙制と市町村長の選任制の併用から「市町村長の任命制」に変更』とされ、次の改選期より実施される事になりました。
 改正のポイントは、各団体からの選任制が廃止、また選挙制も廃止され、町長が議会に人事案件として同意を求める任命制へと変わりました。また、定数においては各自治体の取り決めという事となります。
 さて、農業委員の交代時期は全国的にほぼ同じ時期に改選されていますが、余市町の場合、現在の任期が7月19日までとなっており、これに合わせる形で、3月の定例会から関係議案の提案がされて来ました。
 まず定数については、本年2月の臨時会において、定数減の条例が提案され、任命制のみで16名となりました。
 次に、今回の法改正では、任命に当たり、自薦他薦を問わず、役場側で届出書を受け付ける事となり、3月13日より4月14日まで受付がされ、この件は本年4月号の町広報にチラシとして入りました。
 この届出書の受付時点では、何名が届出されるかわからない事から、定数をオーバーした場合、また、届出をした方が、資格があるかどうかの審査をするために、『余市町農業委員会の委員候補者選定委員会』の条例が平成29年3月の第1回定例会で提案され可決していました。

 それを基に、5月末に選定会が開催され、また、今回は定数に対して2名がオーバーした事により、この選定委員会において、定数である16名が選び出されて、この16名が平成29年第2回定例会において議題として提案されました。
 16名もの人事案件は、過去においても例は無かったのですが、提案された16名は、全員、議会同意が得られ、7月20日より新に農業委員として活動頂くことになりました。


会派で泊3号機建屋の視察を行いました 
 昨年、初めて開催した会派報告会の中で、質問が出され、その趣旨としては、『北電主催で開催された説明会に議員が来ていなかったのは、なぜか』との質問でした。
 この質問に対し、「説明会は北電主催で行われたもので、議会に対しては、所管する委員会(防災という事では総務文教常任委員会の所管です)でも、開催の説明連絡も無かった。開催は、新聞チラシに入っており、このチラシを見なければ、分からなかった」と私が答えました。

 この説明会は、北電主催により『泊発電所の安全対策に関する地域説明会』と題して、管内各町村で開催、また、札幌でも開催されたようですが、余市町では昨年6月21日〜24日までの4日間、4会場で午後6時30分から開催されました。
 私は最終日の6月24日、中央公民館で開催され時に参加しましたが、この時の参加者としては10名には届いていませんでした。

 さて、会派報告会で、この質問が出された事もありましたが、私自身、泊発電所構内に入った事はありません。会派所属議員に聞いても、『1〜2号機建設時の稼働前に入った事がある』『政党主催の勉強会で入った事がある』という議員はおりましたが、3号機が稼働になってから、『見学をした事がある』という議員は、会派の中でも余市町議員全体の中でも、いないのではないかと思っています。
 昨年の北電主催の説明会は、東日本大震災が発生して、福島第一発電所が津波によって電源喪失となり、放射能漏れ事故に繋がったものであり、その後、新基準に基づいた安全基準のレベルが引き上げられ、その工事も終わり、最終確認と政治的判断の段階に来ているようです。
 そして、北電の説明会は、法的義務は無いのでしょうが、改善された泊発電所の姿を伝え、また、その理解を求めるために、北電側の自主的判断で行われたものでした。
 これらの過程の中で、「自身の目で見てみたい」と思い、会派内で相談した結果、「会派で泊に行きましょう」という結論となりました。
 
 さて、単純に「施設見学」といっても、それなりの手続きが必要であり、また、議会日程等の兼ね合いもあり、北電側と連絡を取り合いながら日時を決め、5月9日の午後から実施する事となりました。
 『施設見学は事前説明も含めて、3時間ほどかかる』との事で、午後から施設に入れるように出発。途中で昼食を取り、昼過ぎに、泊村のとまりん館に入りました。

 最初は、会議室でスライドを使った説明を受け、その後バスで移動して発電所敷地内へと入り、最初に高台にある展望所から施設全体の説明を受けました。
 その後、3号機の建屋内へと入りましたが、セキュリティも厳重であり、また、建屋入口には、分厚い鋼鉄の扉が設置されており、『万が一、津波に襲われた場合、扉を閉めて、内部に水が入るのをふせぎます』との説明でした。
 内部の各所の見学をしながら進み、『自然に絶対はない』との説明もされましたが、現状では、想定出来得る対策は取られているとも感じました。
 個人的な意見としてですが、ここまでやらなければならないものなのか。また、これらの設備をしなければ、原子力発電所そのものを維持していけないものなのか。とも感じましたが、電力というものが無ければ現代社会において生活がなりたたない。というのも現実だと思います。
 資源の無い日本という国を、今後も維持と発展させて行くために、原子力発電というものが本当に必要なものなのか。ネットもテレビも無い、また、電子的医療機器等も無い生活に戻る事が可能なのか。という事も含めて、電力と原子力発電所という事項を考えてゆく必要があると考えています。

 
お祭りに思う
 地域のお祭りといえば、昔ながらの神事系と、町の産業系のお祭りに大別されます。また、近年では、イベント的なお祭りもあり、その代表格となったのは『よさこいソーラン祭り』だと考えています。
 余市町では、神事系のお祭りの代表格といえば『余市神社例大祭』であり、また、産業祭りでは『北海ソーラン祭り』と『味覚の祭典(味覚祭り)』となると考えています。
 さて、余市神社の歴史は、文政10年・1827年に、余市町開発の先駆者、林長左衛門が尊信する京都伏見稲荷から勧請(かんじょう・神仏を分けて祭る事)願い、現在の浜中町70番地台(モイレ台団地の崖下で海に面した側)に祀られた事により始まります。
 余市町における歴史上で、もっとも古いとされている神社仏閣は、安永2年・1773年に港町(現在の港町雪捨て場)近辺に、山碓稲荷神社が鎮座したのが始まりとされていますが、余市神社は明治8年から、旧会津藩士の入植者の一人であった、在竹四郎太隆保氏が宮司となった事により、郷社(神社の社格で官弊社、府県社、郷社、村社の順となる)となり、以後、山碓稲荷神社、梅川町にあった琴平神社、さらには、豊丘、豊浜等の各地の神社を合祀(ごうし・複数の神様を一つの神社に祀ること)して現在に至っています。
 宮司が常駐した事によって、年一回の例大祭を行うようになったのでしょうし、本年で余市神社は鎮座190年、また、もっとも古い歴史から数えれば243年目という事となります。
 私は、数年前より、余市神社総代の委嘱を受け、毎年の例大祭に参加。例大祭における仕事としては、写真記録と、神社本社、並びに各地で行われる神輿渡御の神事の司会進行と玉串の呼び出しをする係となっています。
 本格的にこの仕事をするようになって5年ほど経過していますが、役員を含めた神輿行列係の高齢化と固定化。各地域での参加者の減少が顕著になってきていると感じています。 神社の例大祭は、何のために行なわれているのか。といえば、一昔は、お祭りといえば、全町が休日となって、神恩に感謝と娯楽の少ない時代だったので、娯楽を楽しむイベント日となり、そして、神社側としては、ご寄付を頂き、本社や備品の充実と修理等を行ってきました。
 ですが時代が流れ、また、景気も厳しく、さらには、施設・備品の痛みも激しくなって来ていますが、思うように営繕等も出来なくなってきているのも事実です。
 
 さて、『北海ソーラン祭り』は、今年で49回目となりましたが、最初の頃の話を聞くと、パレードは黒川2丁目の飲食店街をパレードして、現在の中央公園で輪踊りをしていたそうです。
 その後、参加者も増えて、パレードコースにはその時々によって、変わったようですが、
私が議員としてパレードに参加したのは平成12年からでした。
 当時は、神社参道入口の国道229号線からスタート、富沢町の五差路交差点までパレードして、バスに乗って黒川第一駐車場まで移動。暗くなってから、駐車場を再スタートして、国道5号線に入り、大川十字街を左折、大川橋手前の信号までパレードをしました。
 踊り手も多かったですが、それ以上に観客の方も、本当に多かったのですが、この形態の最後となった平成22年で、パレード参加者はそれなりでしたが、沿道の観客の方が激減していました。
 平成23年、第43回の時には、完成した余市河口漁港をメイン会場にして、イベント広場と敷地内でパレードと輪踊りをする形に変更。翌年の平成24年からは町営駐車場をメイン会場にして、飲食店街のパレードとなりました。ちなみに、この年に『ソーラン武士!!』君が登場しました。
 飲食店街でのパレードは、コースの長さ等を調整する形で、毎年、飲食店街の中で変更されましたが、町の声としては『以前のように国道をパレードすれば良い』と意見が多く、また、『飲食店街では路面状況が悪く、踊りづらい』との声もあり、本年は国道5号線をパレードすることになりました。

 さて、7月1日は、開町記念日という事もあり、午前中は余市町表彰式が行われ、13時からソーラン祭りの開会式という事で忙しい一日でした。そして、13時半頃から雨が強く降りだして来ましたが、パレード1時間前には雨も上がりました。
 17時30分、オンパレードのスタート。国道という事もあって、沿道には予想以上の方が見学に訪れており、踊る方も熱が入、結果としては大変良かったと感じています。
 そして、4月中旬に、転倒して右膝のじん帯を切断していたのですが、余市神社例大祭、それに続く、ソーラン・オン・パレードも参加して、それなりに、足は痛かったのですが何とか無事に完走出来ました。

 どちらのお祭りも共通点としては、参加者・関係者の高齢化と固定化という問題があり、さらに、何がメインなのかという視点の問題もあります。
 特にソーラン祭りは、実行委員長である、商工会議所会頭の挨拶の中では、『ソーラン節の伝承』という言葉を使っている事も上げられますが、本来の目的が達成されているのか。という事は、よくわかりません。
 どちらにしても、余市神社例大祭も、190年が終わり200年までの、今後の10年間がどう変わるのか。また、北海ソーラン祭りも、来年は50回目を迎える事となり、これも一つの節目の年を迎えることとなります。
 どちらにしても、英知を結集して、また、町の活性化のためには、何が必要なのか。という事を議論して行く必要があると考えます。
 

乳幼児医療費の助成が拡大されます
 今回の定例会において、議案第3号として『余市町乳幼児等医療費の助成に関する条例の一部を改正する条例案』が提案されました。
 内容としては、今までは小学校入学前の通院・入院、及び小学生の入院・指定訪問看護にかかる費用が町費によって助成されていました。
 今回の改正は、これを中学卒業時まで拡大する内容となっており、助成される条件には、所得制限による自己負担はありますが、今までと同じく通院・入院・指定訪問看護と歯科も含まれます。
 条例案の審議の仕方として、所管する民生環境常任委員会に付託され、審議される事から、現時点(ニュース作成時)では可決されている訳ではなく、また、委員会として可決されたとしても、本会議採決が終わるまでは実施されません。
 民生環境常任委員会を預かる私としては、精力的に審議を進めて一日でも早い審議終了を目指して行きたいと考えております。

 さて、余市町では、子育て支援の関係で、多くの事業が展開されています。別表のように、実施している部署は民生部だけではありません。

☆余市町における子育て支援に関する事業一覧☆
 担当課     事業名   
まちづくり計画課 〇住宅取得等支援補助制度
         住宅取得時点に、高校生以下の扶養の子が同居する世帯に対して助成

教育委員会  〇就学援助
       経済的な理由で学用品代や給食費などの負担が困難な世帯の児童生徒に
       対し、費用について援助。所得制限あり。
       〇フッ化物洗口
       小学生に対するフッ化物洗口の実施

保健課    〇ニコニコたまご教室
       在宅助産師によるお産や保健師によるお風呂の練習等
       〇乳幼児検診
       4カ月、10カ月、1歳半、3歳児の健診
       〇幼児歯科健診
       1歳半、3歳児の歯科検診
       〇すくすく教室
       5〜8カ月児を対象とした離乳食の実習、試食教室
       〇ママさん交流会
       母親同士の交流、育児の情報交換をする場所として開催。
       〇フッ化物塗布・洗口
       1歳半、2歳、2歳半、3歳児に対するフッ化物塗布。保育所・幼稚園
      に対するフッ化物洗口の薬剤支給
       〇各種予防接種
       BCG、小児用肺炎球菌、ヒブ、日本脳炎等の予防接種の実施

      〇中学生以下インフルエンザ予防接種

       中学生以下に対するインフルエンザ予防接種の助成

町民福祉課  〇特定教育・保育事業
       幼稚園等や保育所等の利用に対し、施設型給付として財政支援
      この中で一時預かり事業や延長保育事業を実施
       〇子育て短期支援事業
       保護者の病気や出産等で一時的に養育が困難となった児童を預かる。
       〇放課後児童クラブ 
       放課後帰宅しても保護者が就労等で不在の児童を対象に、遊びや生活の
      場を提供。これまで3年生までだったものを本年度から6年生まで拡大。
       〇地域子育て支援拠点事業
       子育て中の親子の交流や保育士による子育て相談の場所の提供。
      本年5月より、黒川(入舟)児童館で拠点の拡大事業として
      『キッズルームあっ ぷる』を開設。

 子育ての支援に関しては、各町村で様々な支援等があり、『第三子が産まれた場合50万円の支給』『高校生までの医療費無料』等の様々な支援をしている自治体もあります。
 余市町を含め、少子化が進んでいる要因としては、景気動向による両親の就労、核家族化、産院の不足等の様々な要因があり、どれか一つを取っても、特効薬的なものはありません。ちなみに、平成27年以降に町内で出生登録された子どもの数は年間で100名を切っています。
 意見として『子どもにかかる医療費は行政が全てを支援すれば良い』との意見を持たれておられる方もおりますが、上記の事業に係わっての予算は年間約3億9千万円となっています。
 個人的な考え方としては、制度の利用には所得制限があってしかるべきと考えており、また、今回の提案も、あくまでも、医療費の無料化の拡大という考え方ではなく、子育て支援の一環としての助成となるべきであると考えています。
 今回の提案は、決算・予算委員会等の議会での議論を通じて、会派所属の議員からも要望されていた事項でもあって、最終的には余市町長が判断して提案してきた議案という事になるのですが、子育て世代には有り難い政策である事から、一日も早い、成立を目指していきたいと考えております。
 

議会改革とは何か
 私は、今年で議員歴19年目に入ろうとしています。この間、初当選直後から年4回の「ひろかずニュース」を休まず発行しており、また、平成14年から始めたインターネットも確実に更新を続けて、現在38万件台のアクセス数となっています。
 さらには、議員個人としての報告会も12回を数え、また、会派としての議会報告会も3回程、経験しています。

 さて、議会改革が叫ばれるようになった一つの背景として、西暦2000年代に入ってからの地方分権が背景にあると考えています。
 北海道では、さほど町村合併は進みませんでしたが、本州地域では、かなり進んだ所もあり、結果として、2700あまりあった自治体数は、現在は1741となってしまいました。
 当然ですが、減った自治体数の数だけ末端の町村議員はいなくなり、さらに、人口減もあいまって議員定数が減らされ、正確な数値は分かりませんが、ピーク時の半分ほどになっているのではないか。と推測しています。
 当然でしょうが町村があった当時は、隣人が議会議員であった方もいたでしょうが、町村合併をした事によって、地域として見た場合、旧〇〇町でトップ当選をしていた議員でも、都市部の選挙をしている候補者とは、各得票数がまったく違い、当選できなくなった。さらに、年数を経過する事によって、議員も高齢化をして引退。と、なれば、旧〇〇町出身の議員は不在。というようなケースも多発していると推測されます。
 以前は顔見知りだった人が議員であった事から、議会の様子も聞けたのでしょうが、地域が違えば、さらには、元々の自治体が違えば、その話も聞けず『我々の所では、議員の顔も見た事もないし、だれが議員なのかもわからない』という状況と不満だけが募り、それによって、より議会改革を求める声が大きくなっているのであろうと考えます。

 これらの背景によって、議会改革の一つとして、議会による報告会が企画されるようになり、新聞にも取り上げられるようになり、さらには、画一的な項目を並べて、点数化して議会改革度ランキングとして発表している団体もあります。
 このランキングによると、余市町議会は改革度の低い議会として低迷しているのですが、審議の仕方や審議時間については、おそらく、近隣町村の中では、回数も時間も多い方だと自負しており、活発な議会に属していると、私は思っています。

 さて、議会改革と言っても、千差万別であり、前掲した定例会開催のポスター掲示も、新たに始めた事なのですが、この効果があるのか。と言えば、「今のところ、その効果は表れていない」と判断されます。
 また、余市町議会改革のメインとなる項目としては、議会での質疑の仕方や討論の有り方といった、議会内部のテーマが多い傾向となっており、この他、細かい箇所でも、改善してきたのですが、それとて、住民の方の好評価があるのかも、今一つ不明です。
 そうした中で、今、一番の問題となっているのは、住民に対しての『余市町議会としての議会報告会(または説明会)』をどうすべきなのかという点で議論が進められています。

 現時点では意見の一致が見られず、前に進めない状況となっていますが、では、だれが異論を出しているのか。という点ですが、実は、所属会派である『民友クラブ』としては『議員全体、または議会として実施するのは現時点では反対であり、各会派で行い、少し経験を積んだ上で実施した方が良い』との考え方を持っているからです。
 他の会派、または個人でも、それなりに報告会を開催しているようですが、正直、「え?いつやったの?」という感じを持っています。
 現状で開催しているとしても、例えば、特定政党の支持者のみにだけ案内をして、また、会場についても、看板等を掲げずに開催している。という様な開催方法であるならば、これは、「いつやったの?」という事になるのではないでしょうか。

 本当に開催する。という事であれば、チラシの配布、またポスターの掲示、会場には看板を掲げて、不特定多数の方に来て頂くような手法を取らなければ「報告会を開催した」とは言えないのではないでしょうか。
 では、私はどうなのか。という事ですが、個人の場合でもチラシは約1000枚を印刷し、ポスターも数箇所に掲示して、会場にも看板を上げて開催しています。以前『看板、上がっていたけれども、入ってイィのかい?』と、まったく知らない方が入って来た事もありました。
 会派の方は、さらに大がかりで、前回の開催ではチラシも1500枚印刷。ポスターも20枚ほど印刷して会派で分担して町内各所に掲示。街宣車も出して、全町を10時間余り広報して回りました。
 そして、個人でも会派でも参加者の方から質疑応答を求める形で運営する形を取っています。

 さて、会派として現時点で反対している理由としては、まず、他町村に見られる、町村合併をした事によって、議員不在の地域という所は無く、特定の地域が捨て置かれている状態では無いという事が上げられます。
 次に、開催するにあたって、どのような形式や考え方で開催しようとする姿が見えない。単に『住民の声があるので開催すべき』という事からしても、具体的に提案がされてこない等、整理しなければならない課題もあります。
 ちなみに、議会としての報告会開催の声は、昨年開催した会派報告会でのアンケートの集計結果として、議会全体としての開催希望は20パーセント。会派での開催希望は40パーセントという事で、議会全体より会派としての実施を求める声の方が多いという結果でした。
 
 議員個々の意見としては様々ですが、『これから手順等を考えれば良い』『テーマを決めて、それ以外は受けなければ良い』『質問は、聞くだけで、後で回答をすれば良い』等々の意見が出されましたが、どれも「現実離れしている」と感じています。
 これに加え、前回の会派報告会開催の後、とある住民の方から全会派に対して、同じ内容で質問状が届いたのですが、その質問状に対する返答についても、各会派、どのように回答したのかが、不明という問題もありました。
 この質問状が届いた後、会派では、まず回答原案を作成して、それを会派全員で合議をして確認と修正をしながら、質問者に対して一週間程度で文章で回答をしました。
 他の会派は、文章で回答したのかどうかもわかりませんが、文章できたものであるのなら、文章を届けて回答するのが礼儀だと考えていますし、中には、質問者を呼び出した会派もあるようですが、こういう実態がある以上、「一緒にやりましょう」という事にはならないと考えています。
 
 住民の方は、議会側と行政側と混同している場合もありますが、一般的には『意見を聞いてほしい』という欲求が強いと考えています。
 行政側との公式な会談・会議というのは、区会の役員さんは年に一回、町政懇談会という形で行われますが、これとて、事前に質問項目等の書類提出をした中での開催でフリートークとなっている訳ではありません。
 また、本年2月27日に開催された『自治基本条例を考える町民フォーラム』でも、質疑応答は受けなかった事によって、『なぜ、質疑応答が無かったのか』という声が多数上がっていました。

 つまり、住民の方は『意見の言う場所がほしい』という事で、そのような背景の中で、「回答は後で」とか「単に聞くだけです」という事では、住民の方は納得しないでしょうし、そして、仮に回答するとしても、だれが、どう回答するのかも、具体的に出てきません。
 回答は、口頭で、その場で行う場合と、後日、文章で回答する場合があるでしょうが、口頭で、その場での回答については、私は、「副議長か議長会派でもある議会運営委員会の委員長が答弁するのが基本である」と意見を述べたのですが、会場で回答した答えが、全会派一致での議会の意見となれるのかは分からず、特に政党間の違いは、明確に出て来ると考えます。
 また、文章で回答するとした場合でも、誰が原案を作成するのか。少なくとも、政党会派となれば、政党の意見、論理が先行するでしょうし、そうなった場合、収拾がつかなくなる事も、十分、予想されます。

 これらの懸念される事項が多すぎ、また、運営にあたっても、だれが進行するのか。という事が、まったく見えない中では、「それに参加します」とか「議員全員でやりましょう」という事にはならないと考えています。
  その為には、まずは、各会派できちんとした形で報告会を開催した上で臨んだ方が、混乱も無く、また、住民の方の理解も得られやすい。と考えています。
 みなさん、どうお考えでしょうか。


第2回 会派『民友クラブ』議会報告会
 という訳で、会派として第2回目となる会派報告会を開催します。

月日 平成29年8月26日・土曜日
時間 午後1時30分〜 90分程度
会費 100円 飲み物代として頂きます。
内容 所属議員側からの議会報告の後、質疑応答の時間をもうけます。

 住民皆様の多数の参加をお願い致します。

                  ニュース第73号完