参加報告 平成29年5月19日UP
      ☆余市町議会、会津若松市訪問☆

  さて、今回の出張ですが、通常、議会・議員での本州出張の場合、委員会単位。という事が多くなっています。
 ですが、今回の会津若松市への訪問は、各会派の代表者という枠組みでした。もう少し、細かくいえば、正副議長以下、議員会会長である吉田豊議員と、5会派の会長5名と会派割りの関係で、民友クラブのみ幹事長である自分が参加する事となり、議員9名と、議会事務局も局長と次長という事で、総勢11名での訪問となりました。
 つまり、「委員会視察ではない」という事で、では、その目的は何か。という事となります。

 今回の会津若松市の訪問の基本的な考え方ですが、以下の通りです。

千歳からの離陸時は、かなり揺れました・・・
 
         仙台空港に到着〜。初めての飛行場です。

 平成27年10月に、会津若松市と親善交流書の締結をしており、会津・余市を結ぶ"ゆかり"を大切にし、この"ゆかり"を次の世代へと引き継いで行くために、住民意識の高揚をはかり、住民間の交流促進を目指す。
 教育、文化、産業、観光などの交互の交流を進めるにあたり、意志決定機関である議会の役割が肝要であり、意義深いことであると考えます。
 その上で今後の交流を議会として支援(バックアップ)してゆくためにも、両議会において、意見交換・情報交換等、相互の交流・連携を促進し、議会同士の友好交流が出来る取り組みが出来るような関係となり、両市町の繁栄と発展に寄与して行くための、その第一歩として。

 という考え方の下に、出向くこととなりました。

仙台空港鉄道はJR東日本の運営では無い・・・んですねぇ。
 
 仙台駅から新幹線で郡山に移動。我々の出迎えではないのですが、新幹線改札前には「むすび丸」が中学生の団体を出迎えていましたょ〜。

 では、なぜ、親善交流書の締結に至ったのか。という問題ですが、『マッサン』放映以後、今でも、会津若松市を含めた福島県の方が、余市町を訪れており、訪れると『余市町内での会津藩士の足跡を見たい』と希望される方が、かなり多くおります。

 余市町内での会津藩士の足跡は、それなりに目に付く形の石碑や記念樹も多いのですが、その石碑や記念樹の由来を含めて、知っている人が何名いるのか。
 そして、ニッカウヰスキーの創成期は、特産品のリンゴでジュースを作り、創成期を乗り切った事は、歴史上の事実であって、さらに、そのリンゴ栽培を軌道に乗せたのは、明治4年に入植した会津藩士800名という事は、歴史上の事実です。

 リンゴというものが無ければ、ニッカ創業者の竹鶴氏が余市という場所を選んだのかどうかも、分かりませんし、また、現在の余市町の一次産業の果物栽培によって、現在のワインにも繋がっている事もまた、事実です。
 ニシンの千石場所として繁栄した西部方面と、会津藩の開拓した土地が、黒川町と山田町となって、町の中心となった事も、また、事実です。


 ですが、今、余市の町で、この事実を語れる方が、何名いるのか・・・といえば、それは、ごく、少数の方しかいなくなった。というのも事実ではないでしょうか。

 
 会津若松駅に無事、到着〜。到着して、ホテルに荷物を降ろしてから、夕食時間まで時間があったので、その時間を利用して、会津風雅堂を訪ねてみました。
 平成20年に、余市町入植に係る市民劇が公演された場所なので、訪ねてみましたが・・・定休日で中には入れませんでした。



 『あなたは、どこの出身ですか?』と質問された時、以前の北海道人は、先祖の出身地を答えたはずです。
 ですが、今は、『出身は北海道です』という人が圧倒的になって来たと思っています。
 
 元々、北海道人は、先住民族であるアイヌ民族しかおらず、いわゆる和人は、江戸末期からの住民で、いっていたとしても200年程度です。

 ですが、本州地域は、千年を超える歴史・風土・文化があり、会津という国は間違いなく、この国の中で歴史に刻まれる地域であって、明治以後、会津の歴史を語り継げる資格のある地域は、斗南、そして、余市、それに続くのは、札幌の屯田兵という事になると、私は考えています。

 ですが、会津の余市との係わりあいは、知っている人は、知っていたのでしょうが、両市町共に、今は、「分からない」という方が圧倒的に増えたのも、また、現状だと考えています。


 ホテルの窓からは、遠くに、お城が見えました。ちなみに、いつも使っている倍率の高いカメラではないので・・・これが限界です。
 
 昭和12年建設の会津若松市役所。軟石作りですが・・『古いので、修繕が大変です』との事でした。


 
市役所内部に入ると、案内板が、各所に・・・

 
 会議室には、名札も用意されてありました。歴史ある議事堂で・・・イスは昔のイスなので・・・長時間、座っていたら、かなりキツイでしょうねぇ・・

 これらの過程の中、これからの地域がどうあるべきなのか。同じ、お付き合いをするとしたのであれば、縁の深い者どうし。というのは、これは自然の流れだと感じています。

 さらに、『八重の桜』『マッサン』等で、関心も高まり、その流れによって、親善交流書が締結となって、数年前から、一年おきに、中学生が夏休みに行き来するようになり、また、昨年は、会津市民の方が100名余り、余市町を訪れ、町内に宿泊されていかれました。
 それらの流れをさらに加速するために、議会としても、交流を深め、議会なるが故に、町の政策決定にあたり、議会・議員としての提言等をしていかなければならない。という事であって、その第一歩として、議員自らの目で、会津という地域を確認しておかなければならない。という事です。


 昼食場所に、1枚のチラシが・・・会津で作られた紅玉・緋の衣・国光の3種類のジュースです。余市リンゴは、初収穫から、この3種類が長きに渡り生産されていました。
 
 午後からは市内の視察という事で、鶴ケ城の視察で、三の丸からお城に入りました。ちなみに、バスを降りた所には、八重様の銅像がありました。


 さて、会津を訪問して、さらに、会津若松市議会との方とも、懇親を深めて来と感じておりますが、自身の感想としては・・・

 まず、やはり歴史が違うなぁ。と感じました。これは、単に城下町である。という事だけでなく、今でも、街全体というか、地域一帯としてそれが感じられました。
 さらに、『ならぬことはならぬものです』との教えのとおり、その精神というのが、行き交う人々にも感じられました。
 正に見習うべき所は、たくさんあるなぁ。と感じてきました。
 
 ただ・・・・「いゃ〜、遠いなぁ・・」と感じたのは事実でした。ちなみに、移動ルートとしては、余市町役場→町のバスで→千歳空港→仙台空港→電車で→仙台駅→新幹線で→郡山駅→電車で→会津若松駅→会津若松市内のホテル。というルートで、待ち時間を含めた移動時間だけで8時間は超えていました。

 ちなみに、『それは遠いわ。一般的には、新潟空港を使いますよ。新潟の方が、便数も多いから』と、会津若松市議会の目黒議長のご意見を頂きました。

 さて、日程としては、5月15日から17日まで。という事で、16日に、会津若松市議会を訪問させて頂き、午前中は市役所で意見交換。午後は市内の視察。という日程でした。


 訪問の目的が"今後の議会同志の交流促進に向けて"という事であり、私に意見を求められたので、私は「正しい歴史を後世に伝えてゆく必要がある。書物には多くの間違いも見受けられ、例えば、歴史家を互いに派遣して、突き合わせて行く必要があるのではないか」という意見を述べさせて頂きました。

 この背景としては、過去に出された書物の正確性。さらには、近年においては、インターネットの普及によって、間違った史実でも、それが正しいもの。として、以後、そうなってしまう可能性がある。という事を、私は歴史家でもなく、さらに古文書を読める訳でも無いのですが、「え〜、これ違うよ〜」という思う所があるからです。

 ちなみに、他の議員は議会改革についても話題を出していた議員がいましたが、「それは、今回のテーマとは違うだろう」と感じていましたし、議会改革は、自身で実践して行った中で、自ら修正して行けば良いものだと、私は考えています。

三の丸から見る天守閣です。
 
 城内の一画に、萱野権兵衛氏の『殉節碑』がありました。この石碑は昭和9年に建設されており・・・うーん、余市の方は、昭和12年に建設されており、『会津のものを、余市でも』・・・という事で建設したのでしょうかねぇ・・・会津と余市の石碑の天額の書体は、似たような書体なんですが・・・


 昼食の後、市内の視察という事で、最初に『鶴ケ城』、次に会津藩の歴代藩主の墓地である、国指定史跡でもある『会津藩主松平家墓所』を見ましたが、やはり、歴史というか、単なる大名とは、まったく違うなぁ。と改めて感じました。

 そして、次は萱野権兵衛の墓をお参りして来ました。これは、私が出発前に提案して、いわばリクエストした場所でした。
 その理由としては、余市町黒川町の高橋配管さんの横にある『旬節碑(じゅんせつひ)』は、萱野権兵衛さんの、功績を称えた石碑である事から、「会津に行ったら、墓参りしましょう」という提案でした。

 写真やパンフレットでは見ていましたが、実際の大きさは・・・現物は「いゃ〜デカイなぁ」と感じます。ちなみに、この石柱はお墓ではなく、お殿様の功績を記したものだそうです。お墓は、この上にあります。
 
 
萱野さんのお墓で、相当、遠いのですが、菊が一本、供えられていました。心ある方は、いるのですねぇ。

 で・・・・この名前は、代々、継承される名前であって、また、一族の墓石が、同じ敷地にありました。つまり、同じ、名前のお墓が・・・見分けるのは、横に掘ってある年号で見分けるそうです。一人で来たら、絶対に分からなかったでしょうね。
 正直・・・いゃ〜、大変でした。元々、墓地は山坂ですが、墓石群の、さらに奥で・・・『熊注意!』の看板はあるし、言いだしっぺが行かない訳には行かないので、ヒザをかばいながら、登りました。ちなみに、足腰が痛くて断念した議員も・・・いました。

 最後は飯盛山という事で、参拝の後、山の下にある、白虎隊記念館にもよりました。ここも、余市町とは縁がある。というか、飯盛山で自沈した白虎隊士中二番隊の半隊長であった、佐藤駒之進信明が、明治4年に余市町に入植した中の一人です。
 館長とも少しお話をさせて頂きましたが、余市の水産博物館には、佐藤駒之進信明の写真が展示されているのですが、ここには無いそうです。また、余市町での発行の書物の中にも、「うーん、会津の方には名前が無いなぁ・・」と感じている方もおります。

 まちの駅・・・うーん、市営の駐車場なんですが・・・係の方もおりましたが、トイレと駐車場だけでした。
 
 飯盛山は個人の所有物だそうで、今は、電動スロープがついていて、登るのは、楽でした。



 
 
会津若松市到着時は雨。視察日は曇り。最終日、帰りは晴天でした。駅前を1枚・・・

 歴史は、パズルであって、一つ分かると、全体が繋がる。という事もままあり、新たな発見があれば、次に繋がる可能性もあります。

 そして、現地に行って、現地を見て、解けた謎もありました。自身としては、様々な課題と、今後の進むべき方向を、考えるきっかけになりました。

 元々、個人的にも家系的にも、会津との関係があるのですが・・・・行きは、雨で見えなかった磐梯山は、帰りの電車の中からは、綺麗に見えました。



 この磐梯山の麓の猪苗代町が私のルーツであり、この地を訪れたのは、自身2度目ですが、一度目は小学校の4・5年生だったので、来たという記憶だけしかありません。
 つまり、実質的には始めて訪れた事となり、個人としても考えさせられるものがありました。ちなみに、仏壇用には、猪苗代町出身の野口英世の関係の饅頭を買って来ました。

 
 
北海道新幹線には、乗りませんでした。帰りは、あまり揺れなかった・・かなぁ。ちなみに、通過新幹線があったので、見ていたら・・・「あっ」という間に通り過ぎました。やっぱり、早いわぁwww


 以上、会津若松市訪問でした。

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