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参加報告 平成24年9月4日UP
     ☆明治神社大祭☆

 モイレ山の山頂近辺にある、明治神社。自分も議員になってからですが、毎年、大祭の案内が届くようになっていました。
 そして、今回、初めて「どんなふうにやっているのかなぁ?」と思って、出掛けてみました。
 
16時30分からということで時間に合わせて、行ってみました。

 
 明治神社のある場所は、ある程度の方は、覚えておられると思います。また、その昔は、主要道路は余市橋ではなく大川橋という事で、メイン通りに鎮座する神社という事で、それなりに参拝された方も多かったのではないか。
 また、東中学校がある事から、おそらく、この階段を練習に使っていたクラブもあったのではないか?とも推測していますが、今では、あまり訪れる人もいないのが現状ではないかなぁ。と考えています。


 

 『明治神社』という事で、御神体は、明治天皇ということなのかなぁ・・・とも考えていましたが、よく、分かりませんてしたが、今回、訪ねて、宮司さんらに色々とお話を聞かせてもらいました。

 
社務所の中に、明治神社の由来が書かれてあり、その中には、次のように掲載されていました。


 大正元年7月30日、明治天皇崩御あらせられ、9月御大葬行くはるるや、町長御厨三郎町長、全町民を会して中央小学校校庭に遥拝式を行う。
 ・・・・余市神社宮司鈴木重任は有志と計り大正2年6月にその神〇(読めません)を奉斎して社殿を茂入山山頂に造営し明治天遥拝殿と称し爾来7月30日を祭日と定め、全町の有志を会して崇敬会を組織して盛大なる祭典を執行せり。
 ・・・・大正12年4月大暴風の為社殿倒壊の厄に逢うや・・・・・・大正15年7月現在の社殿を完成せり。
 其の後漸次諸施設を完備し永久奉斎の為明治神明社と称して無格社公認を出願したるも、天皇奉祀は時の政府の方針として官弊大社に限るとして却下せられ、止むなく社殿境内地を県社余市神社の所管に移し祭典及其の維持は崇敬会によって行うこととし、毎年9月3日に祭典を執行せり。
 昭和22年秋大祭に余市町出身の戦死将兵の神霊482柱を配祀し、昭和24年大祭に41柱を合祀す。遺族を招じて盛大に祭典を執行し、爾来全町民の秋祭として親しまるるに至れり。
 昭和31年10月25日、宗教法人令に基づく神社本庁所属の神社設立を出願、同年11月9日、神社本庁統理の承認を得、さきに昭和12年余市神社の所管に移したる社殿境内地の返還を得て登記を了し、昭和32年5月22日を以て、宗教法人『明治神社』として多年の宿願を果し新に発足せり。
 昭和43年8月2日其後に判明せる殉国の英霊138柱を合祀す。・・・・・・・・
 平成8年9月2日英霊1柱を合祀し現在680柱なり



 さて、この由来の中に出てくる町長ですが、余市町の町長としては、明治33年7月に1級町村制度が施行され、それを初代として、御厨三郎町長は5代目の町長となっており、明治43年12月から8年2カ月間、町長職にあったという記録となています。
  
余市町の庁舎応接室には、歴代の町長の写真が掲示されています。御厨町長の写真もありました。
ちなみに、議会議長の職が記録に出て来るのは、昭和21年10月からとなっていますが、議会議員も明治33年からの記録はあります。そして、明治天皇が崩御されたのは明治45年ですので、この当時の議員数は20名が名前が残されています。



 さて、大祭の案内は以下の通りとなっていました。

 9月2日 午後4時30分 山岸禮三翁碑前祭
      午後5時    余市町殉国遺族会碑前祭
      午後6時    宵宮祭
   3日 午前10時   本 祭


山岸禮三翁碑前祭
  
 この石碑は山岸禮三さんという個人の石碑です。なぜ、この石碑の前で玉串をやるのか?と思い、聞いてみました。
 この方は、陸軍中佐で軍医だったそうです。そして、昭和一桁の頃、各学校の校医も兼任されていたようで、『学校に来るのにサーベルを下げて来ていた』と記憶されておられる方もおりました。そして、ここに石碑があるのは、崇敬会会長職にあった方で、実質的にこの神社を運営されていた方だそうです。
社務所には、この山岸さんが、当時の宮司に出した感謝状があります。
 なお、発行した月日等は、以下の通りになっていました。
  昭和11年9月3日 明治神宮崇敬會々長
         従五位勲三等功五級 山岸禮三
 
                     
明治天皇の御写真
 
昭和11年当時は、明治神社では無く、明治神宮と呼ばれていた?という事は、東京の明治神宮と同じ位置付けにしていたんでしょうねぇ・・・


 
昭和天皇の御写真。戦前と戦後でしょうねぇ・・ちなみに、社務所にありました。


余市町殉国遺族会碑前祭
 
次に場所を移動して・・といっても、同じ敷地にあります。石碑ということで戦死された方の氏名が彫られており、ここでも玉串が捧げられます。


宵宮祭まで時間が少しあったので、本殿の脇の階段を上ると、軍人勅語が書かれている石碑があります。

 
石段も崩れており、雑草も激しく伸びていて、上るには相当の注意が必要でした。
 

また、本殿の上側、モイレ山山頂には教育勅語の石碑もあります。
 
  石碑の裏石板は抜かれており、石板の由来は分かりませんが・・・・

 お参りにきていた、年配の方、教育勅語の石碑の事を聞くと『元は高校の側にあったけれども、ここに移動させた。山頂まで上げるのに3日かかった』との事でした。その当時、今の道路があったのかどうかも・・・わかりません。

 軍人勅語の石碑、教育勅語の石碑も、どちらも、戦後の混乱期、占領政策の中で、よく、取り壊されなかったなぁ。と関心します。


明治神社宵宮祭
 
 
本殿の中で祝詞が上げられ、その後、鎮魂歌が流された後に、玉串が捧げられて終了です。参拝者は20名程の方でしだが、神社総代、遺族会の方が中心でした。 
 昭和20年代までは、この他に、町長や議員、また、在郷軍人会関係者も多数、きていたのではないか。と想像されます。


日付変わって、9月4日となりました。
 
     本殿に掲げられている額には『文武山』と書かれています。
また、ここの社務所には、色々と掲示されているものがあって・・・・
 
天皇家の家系図ですが、文字が小さくて、読めません・・・

 
また、1枚の写真と解説  東京オリンピック記念植樹という石碑もあって・・・

上の写真の解説を・・・
 昭和11年秋 陸軍特別大演習を本道で行う。この記念事業として
参道の大改修を計画。3カ年の歳月、150段となり、総工費壱千五百円。
 昭和14年6月3日 明治神宮崇敬會


  うーん、ここでも明治神宮という言葉を使っていますねぇ。

本 祭
 
本祭といっても、祝詞が読み上げられた後、宵宮と同じく、鎮魂歌が流された後、玉串となります。
 
この鎮魂歌、ビアノ伴奏で歌詞も入った局としてラジオから流されますが、この歌の石碑も境内にあります。うーん、石碑といっても、作成にはそれなりの金額がかかるでしょうから、それだけの金額を集める力があったということですね。

 
玉串の上の額には、戦没者の氏名が書かれてあります。そして、最後は宮司からのお話がありました。

 宮司のお話の要旨は・・・・

 明治天皇が崩御されて、今年が100年目となった。この神社は、明治天皇を御神体として、大正2年に建立された。来年が100年目の節目となる。
 明治神社という事で、明治天皇を崇めている神社の中で、東京の明神宮、また、札幌北海道神宮よりも早く、日本最初に100年を迎える。

  というものでした。

 神社の由来、また、当時の天皇陛下の位置付けを考えれば、『明治』という名称を使う事も恐れ多いことだったのだと思います。
 何度も神社庁に『明治神社』の使用を求めたが、許可が出なかったのを、戦後も、休む事なく『御祭』を続けたことによって、要約、認められた。という事です。

 神社としての歴史としては、新しいのでしょうが、明治天皇を崇めた神社としては、もっとも古い神社という事は、誇れる社ということとなります。

 今、世相としては、竹島、魚釣島等、領土問題もあって、何かと騒がしい時代です。
 天皇家とは地球上でもっとも、家系的に明確な家柄と、その時代時代における位置付けもあり、日本という国もなかなか理解されない国なのだろうと考えます。 
 天皇の位置付けも、また、神社という位置付けもその時代時代によって、翻弄される難しい時代だと考えます。
 ですが、これもまた『歴史』の一つであり、国の歴史も、そして、町の歴史も覚えておく必要もあるのではないでしょうか。
 
 そんな事を感じた、明治神社大祭でした。