独り言 平成27年6月5日UP
  
☆会中・会高北海道同窓会に参加させて頂きました☆

 4月15日の独り言で会津若松と余市町の関係をUPしましたが、この中で「手持ち資料を作った」と掲載していました。
 この資料を作った本当の目的というか、実は・・・・この度、福島県会津若松市にある、旧制会津中学校・会津高等学校の北海道同窓会に参加をさせて頂き、この席で、「余市町における会津藩士の足跡」と題して、講演をする事になっていたからです。

 そして、当初の日程通りでしたが、去る、5月30日・土曜日に札幌第一ホテルにお招き頂き、約1時間の講演をさせて頂きました。

 札幌ススキノにある札幌第一ホテル。ホテルの前には「會津白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地」という石碑があります。この碑字は、會津松平家第13代当主の方の文字という事です。
 
 飯盛山で自決をした白虎隊士中二番隊の隊士であった、飯沼氏。そして、この士中二番隊の半隊頭であった方が佐藤駒之進氏でした。
 余市に入り、農地を開拓した会津藩士の中に、佐藤駒之進氏がおり、佐藤氏は、生前、白虎隊のことは一切、語らなかったそうですが、二人は、同時期に北海道にいた。という事になるのでしょう。ですが、お互いにその存在は知りえなかったのではないかなぁ・・・・とも考えています。
 そして、自分の祖先も会津から渡って来たという事で、会津との縁がある者が、当時の話をしに来た・・・という事は、不思議なめぐり合わせではないでしょうか。


 さて、これに至る経過ですが・・・

 昨年の夏に、一本の電話が入って来ました。会津高等学校・北海道同窓会事務局の方で、『余市町を見学に行きたいが、案内をお願い出来ませんか』との事でした。
 なんでも、気軽に受けてしまう・・・・という事が自分の欠点ですが、まぁ、気軽な気持ちで「イィですよ〜」と受けました。
  まぁ、会津藩の方というか、福島県の方は、比較的、余市町によく訪れて頂いております。
 自分の所の『緋の衣を見学させてほしい』と見学に来て、そうなると、次には『会津藩士の墓』というのが定番となっています。


 さほど考えず、気軽に受けたのですが、『10名以上の団体で訪問します』との申し入れがあったので、「それなりの配布資料も必要だろうなぁ」と思い、会津関係でそれなりの資料を持っているのは、町の教育委員会だろう・・・と思って、水産博物館に行って、「なんか、資料、頂戴〜」ともらって来たのですが・・・・
 
 博物館にあったのは、平成3年に作成されたものでした。まぁ、その後、新説が出された訳でもないので、内容的には充分だと思いましたが・・・

 来館者用に、コンパクトにまとめられていたものですが、"コピーのコピー"といったように、画質も悪いし、また、文字も小さく・・・
 正直、「これじゃあなぁ・・・」と思い、また、それなりにパソコンを使って、作成出来る技術というか、日頃、やっている事なので、「作成しなおしましょう!!」という事で、作業にとりかかりました。
 と、いっても、数カ所の写真を写して、また、文章は教育委員会からもらって来たものを転用し、プラス、余市町内では、比較的一般的な事項を取り入れる事にして作成しました。

 まぁ、そんな所だろうと思って、気軽な気持ちで受けたのですが、会津高校同窓会の方と何度かやり取りをしている中で、事務局の方の大変熱心な姿勢は感じていました。
 そして、偶然ですが、会高同窓会の皆さんが訪れる二日前に、これは、新聞にも掲載されていましたが、会津松平家第14代当主の方が、余市町を訪問する事となって、当然、当家の緋の衣の見学もされました。

 明治維新の時の会津松平家は第9代の方ですが、その直系の子孫である第14代松平家当主の方の訪問となれば、迎える側としても、いいかげんな気持ちであっては、失礼に当たります。
 そんな経過もあって、説明員となるためには、それなりの勉強をしておかなければならない。という事となりました。

 

 そして、一応、完成されたのが、初版に当たり、昨年9月に、『会津藩士による余市町の開拓とリンゴの話』としてA4・10ページとして完成し、これをもって、会津松平家のご一行様を迎えるに至りました。
 当日は当主の方、会津若松商工会議所、会津松平家奉賛会の方々13名で来町。迎える側としても、嶋町長、余市商工会議所、初代会津藩士入植の子孫の方々がお迎えして、町内数カ所の案内をして、当吉田家にもお立ち寄りを頂きました。
 この日が平成26年9月4日であり、その二日後に、会中・会高北海道同窓会の皆さんを迎える事となり、この資料は当日、みなさんに配布をさせて頂きました。


 そんな経過があったのでしたが、余市町に住んでいる自分としては、さほど、珍しい歴史でもなく、それなりに知っている事項です。
 それを説明しただけなのですが、非常によろこばれて帰られ、逆に、自分の方が大変、恐縮してしまいました。

 そして、昨年末に、再度、会高北海道同窓会事務局さんから『同窓会総会で講演をして頂けないか』との要望があって、これまた、気軽に「イィですよ〜」と受けてしまいました。
 まぁ、受けてしまったのもあって、色々と調べて・・・また、『マッサン』の放送もあって、ネット上には、情報が氾濫して・・・

 
 5月末、駅前の道道の歩道レンガの取替え工事がされていました・・・珍しい工事ではないのですが・・・工事の告知看板は、ニッカ工場の正門でした。うーん、やっぱり人気ですねぇ〜

 ・・・・『マッサン』は高視聴率だったようで、余市町を訪れる方もドンと増えた。
 それに伴い、ネット上でも、それなりに余市と会津の事が掲載されるようになったのもありました。
 その中には、「なんかおかしいなぁ・・・」「余市町での記述には、無いのに、どうして、こうなっているのかなぁ・・・」というように、ネット上の事なので、それをどうのこうのと言うものもなぁ・・・という事もあります。
 ですが、「正しい歴史はどうなのか」という事を、やはり、なんからの形で、残しておかなければならないのではないか。とも考えました。

 そんな背景があって、昨年9月に作成したものを、さらにバージョンアップというか、より詳しく、書き留める事にして、また、読まれる方の事を考えて、文字も12ポイントにして、作業に入りましたが・・・・正直、これが大変でした。

 とにかく、講演すると決まった以上、再度、資料づくりを・・・ということで、図書館に行って、過去において、町内で発行された書物を見るようになり、また、明治4・5年に入植された方の子孫の方に、そのお話を聞いて回りました。

 
 幸いにして、余市町内には現在も続いている、住民が手作りの文芸誌があり、その中で、会津関係をまとめた『余市移住 旧会津藩士の足跡』という本が発行されていました。今回の作成に当たり、この本の中から、かなり引用させて頂きました。また、余市自治発達史第5巻と余市生活文化発達史第7巻からも、引用させて頂きました。

 
 見る側のことを考えての作成として・・・当時の絵図と現在の地図を並べて、関連石碑等の場所の説明と・・・

 そして・・・

 
 余市の会津といえば「リンゴ」であって、明治12年に初めて収穫されたリンゴである、「緋の衣」は当家のものは100年樹であり、原木とされるものは、当家にしかありません。今年も、花が咲いて、秋には収穫出来るかなぁ・・・

 会津藩士の入植の件は、会津若松市で、市民手作りの劇『緋の衣の詩』として、平成20年に上演されましたが、このオープニンクを飾ったのが、当家の緋の衣の木でした。残念ながら、本上演は見に行けませんでしたが、後日、DVDが送られてきました。

 
 ここ数年来、飛び込みで来られる会津の方も、それなりに多く、そして、その方に場所を説明する・・・といった場合の地図が無い!という事で、これもまた、作成してしまいました。

 冊子も完成しましたが、講演の時は、それだけではつまらない・・という事で、マッサンは、会津関係者の方も、おそらく、かなり見られたので、マッサンの話題という事で・・・・森野熊虎の屋敷であった、福原魚場の居間の撮影にも出向きました。
 ちなにみ、ドラマでは、この1/2の大きさでセットが作られ、ダルマストーブは、実際にドラマの中に置かれていたものだそうです。

 
 この場所の見学に・・・ゴールデンウィークは、昨年の10倍の方が見学に訪れたそうです。
 
 ちなみに、この写真撮影のためだけでしだが、キチント、入場料は支払いましたょ〜。隣の駅前のニッカ熊は・・・単にスペースが空いていたので、掲載しただけです〜


 
 
 年明けから作業を本格化させて、3月上旬にはとりあえずの原本を完成。それを持って、余市在住の会津藩士末裔の方に確認を頂き、また、町の歴史に詳しい方にも見て頂き、その都度修正していきました。最終的に、本年5月上旬に、ようやく、完成しました。
 最初は、ここまでのページ数は考えていませんでしたが、なんと、30ページにもなってしまいました。
 ・・・ワードで作成したのですが、写真を多用した事、また、印刷した時に、写真がきれいに印刷出るように、写真データを大きくしたので、ワード容量がオーバーして、作動停止というか、ワードが切れてしまい、何度も再起動をするハメに・・・写真1枚を入れたら、その都度、保存してと・・・エラク時間がかかりました・・・こんな事やっているもの、パソコンも壊れるよねぇ・・・
 あわせて、前掲の地図とダイジェスト版も作成したのですが・・・ダイジェスト版は、文字サイズを小さくして、写真も宿小して・・・それでも、30ページもあるものなので、8ページに落とすのがやっと・・・でした。

 5月上旬に完成させて、町内の会津関係者、また、観光窓口、さらには、余市町関係者にも配布して、「配ってもらってもイィですよ〜」と伝えたのですが・・・
 いかんせん、原本はカラーという事で、やはりカラー印刷でなければ、分かりづらいし、その良さが伝わらない・・・・
 これをカラー印刷にする。という事になれば、30ページを越えるものであって、おいそれと、渡せない・・・・というか、インクジェットのプリンターで印刷すると、タンクがすぐに空になってしまいます。


 さて、そして、5月30日の当日を迎え、午後から余市を出発しました。
 
 さて、会場に入り、自分は少し、誤解というか、勘違いをしていました。
受付の看板には
 平成27年度
 会中・会高北海道 同窓会 様
    会女 同窓生の集い

 となっていました。つまり、会津中学は、時代の流れによって、会津高校に変わったのであって、それは、判っていましたが、てっきり、女性も会津高校の卒業生と思っていました。ところが女性は、会津女子高校の卒業生という事で、違う高校であった。という事でした。自分としては同じ高校と勘違いをしていたんだなぁ。と気がつきました。
 ちなみに、会津女子高校の歴史としては、明治26年に会津女学校としてスタート。明治末に会津高等女学校となり、昭和23年に会津女子高校。そして時代は流れ、平成14年に男女共学の葵高校という事になっています。
 
 会場には40名ちかくの方が集まっており、その中で講演をさせて頂きました。会津若松市からも、高校の現職教員の方、同窓会本部の役員の方。さらには、大阪の同窓会の方も参加されており、組織の強さというか、会津という名前の団結力に、正直、驚きました。

 そして、聞く側の方は、なんたって、会津本国の方ですし、江戸時代末から明治初期の話は、みなさん、ご存じ・・・下手な事や、間違った事を言えば、それこそ、お叱りを受ける事となります。

 講演は写真を60枚用意して、PCからプロジェクターで流すようにして、写真に解説を加えながらの講演でした。
 なんとか、時間も、また、用意した写真も使いきり、講演を終了する事が出来ました。
 
 講演終了後に、北海道同窓会会長であります、太田原様から、お褒めの言葉を頂戴いたしました。また、参加者の皆様とも一緒に記念撮影もさせて頂きました。大変、ありがとうございました。

 
 『最後に一言どうぞ〜』と言われましたが、話すネタは、もうありませんでした。

 今回の講演は、会津若松市と余市町との関係について、良い方向になったのではないかと、考えていますし、また、これによって、福島県から、余市町を訪れる方が増えれば、チヨットは町の活性化にもなるのかなぁ・・・とも考えています。

 過去の余市町の歴史の中で、昭和40年代の小柄町長時代に、会津との関係で、色々と記念事業的な企画がされたような記述もありましたが、これが実現される事なく、現在に至っておりますが、『マッサン』の取り持つ縁で、今後、その方向に進んで行くのかも・・・・しれません。
 それは、それで大変良い事だとは感じていますが、移民の地である北海道、そして、出身地を聞かれれば『北海道』と答える住民が圧倒的に増えた中で、福島県の会津若松市との交流は、余市町にとっても、試される事になるのではないかなぁ。とも感じています。


 ここに至る間、ご協力頂いた方、特に、文章作成にご協力を頂いた皆様に、この場を借りて、感謝申し上げます。ありがとうございました。
 また、この講演をご希望の方がおられれば、町内会等でも講演したいと考えていますので、ご連絡下さい。

 ちなみに、今回作成した「余市町における会津藩士の足跡」については、ネット上にUPする予定はありません。
 なぜなら、一度UPすると、勝手に一人歩きをするからです。
興味のある方は、余市町までお運び下さいm(_ _)m


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