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独り言 平成27年4月15日UP
   ☆会津と余市、そして『マッサン』☆

 好評の中に終わったNHK朝の連続テレビ小説『マッサン』。最終回は(;;)(;;)で終わってしまいました。

 マッサンによって、余市町は一躍、有名になって、舞台となった、ニッカウヰスキー余市工場は、ドラマが始まってから、連日、見学者が押し寄せて、ドラマが終わった今でも、見学者は増加したままで、高い数値で維持をしているそうです。

 今回の影響で、良い影響があった、お客さんが増えたというのは・・・冬の期間という事、また、ニッカでウィスキーの試飲が出来ることもあったのでしょう。列車で来る方がドッと増えていたようで、特に、小樽に向かう夕方の列車は、立ち乗り状態だったそうです。
 この他、駅前近辺の食堂も入っていたようですが、雪のある時期は、他の観光も・・・あまり無いでしょうから、さほど『忙しかった』という話しは聞いておりません。

 まぁ、ドラマが終わって、今後、余市町を訪問する方が増えるのかどうかは・・・・分かりませんが、半年くらいは、多いと思っています。

 さて、ドラマの最中から、言われていた事ですが、『マッサン』は、フィクションとノンフィクションの微妙な所で脚本がされていたと見ていました。
 ですが、ドラマを見た方は、『すべて、事実』という事と受け取っている方も増えているようです。
 
会津藩の関係は、余市水産博物館で、展示されています。
 
 展示の中は、有名な『御受書』もあり、コピーですが、手にとって中を見ることができます。

 特に、フィクションだったのは、熊虎さんは、『会津出身で、リンゴ作りをして、その後、ニシンの親方になった』という設定でした。
 明治初期に余市に入った会津藩士たちは、人の手が入っていなかった現在の黒川町と山田町を開墾。リンゴを栽培に成功した事は事実です。
 また、余市町はかなり古い時代から漁業が盛んで、戦前はニシンが大豊漁であり、これまた、豪商がたくさんいた事も事実です。
 ですがリンゴ作りがニシン場の親方になった。という事実はありません。

 まぁ、その他にも細い所は色々あったのでしょうが、ドラマ=事実というような風潮になっている事。
 そして、マッサン人気もあって、会津と余市の関係もネット上で、多数、UPされているようですが、ネット上に流れる事によって、それが『事実』という事となっている・・・・・
 具体的には上げませんが、自分が読んで、「どうもおかしいなぁ」「少し違うんじゃあないの?」と感じる事も、多々あります。

 
会津藩降伏の時の錦絵。
この場面によって、リンゴが収穫された後に『緋之衣』という命名がされたと言われています。
 
 会津と余市町との関係は、今回のドラマでも、はっきりしていましたが、今年に入り、NHKのウィクリーステラという雑誌。この雑誌はNHKが発行していますが、余市町内には、町広報と一緒に各家庭に配布されましたが、同時期に、会津若松市内でも、配布されています。
 見た目や表紙の構成は同じですが、会津版の方は、会津若松市で費用を負担して発行。中身が違います。
 また、3月28日のドラマ最終日には、福島県内の新聞、福島民友新聞と福島民報の2社に、新聞の一面広告が出されました。
 タイトルは『マッサンとふくしま』と題して、リンゴ栽培の経過、そして、ニッカの歴史が掲載されています。

 これは、ニッカウヰスキー創成期、ウィスキーを仕込んで出荷出来るまでの間、余市で栽培されていたリンゴを使って、ジュース等を生産して、創業期を乗り切った。という事で、これは、事実でドラマの中で、放送のあった通りです。

会津関係の石碑は、4ツあります。設置年月の順番で、明治20年『志業永伝』の石碑です。表面に銅板で入植当時の経過が綴られていましたが、この銅板が盗難にあい、昭和60年に『会津藩士の墓』として、リニューアルをしました。
 
ちなみに、元々は入植の経過を綴った記念碑ですので、この下に埋葬がされている。ということではありません。
また、墓石の前の松は、会津土津神社のご神木が植樹され、同時期に道内5箇所に植樹がされています。

 新聞の全面広告ですから、相当、高かったのだと思いますが、だれがお金を出したのかは別として、その意気込みたるや、「すごいなぁ〜」と感じます。
 ちなみに、なぜ、この事を知っているのか?ですが、この新聞広告に掲載されている『緋の衣』の写真については、広告を作っている会社から、使用願がされ、私が提供したもので、昨年実った『緋の衣』の写真が掲載されている事によります。

黒川町にある、『開村記念碑』。大正元年に、入植50年を記念して建立。
この近辺の場所に上陸して、石碑の場所は、当時の隊長の屋敷があったと所。と言われています。

 
右写真は、開村記念碑の左側にある記念樹は、昭和61年、当時の福島県知事によって、植樹をされています。ちなみに、この時の知事さんは、松平勇雄知事で、幕末の藩主・松平容保公の直系の孫です。

 さて、余市町における会津藩士の記録は、町内の方は、ある程度の事は知っていると思っています。
 町内にある、会津関係の記念樹は役場の駐車場にもありますし、初期に入植した場所には、二つの大きな石碑もあります。
 ・・・でも、以外と知らない方も多いのも事実です。

余市町役場前、駐車場の中にある、オンコの木。昭和11年に役場新庁舎完成に合わせ、会津藩士で山田町を開墾した川俣友次郎が植樹したもの。この時で樹齢80年と言われており、山田町から移動したもの。
 
 木の足元には、『記念樹』の石碑がありますが、この石碑は昭和40年に設置されたもので、この木のいわれが書かれています。
 
 正しい歴史ですが、戊辰戦争で敗れた会津藩の武士の一団は、東京→小樽を経由して、明治4・5年に、余市町の現在の黒川・山田町に入植して開墾。
 そして、明治12年にリンゴを結実させて、以後、山田町で作られたリンゴは、天皇家に献上するまでになり、昭和の時代までは、余市町の一次産業の中核となっており、そして、北海道内における果樹栽培の基礎を作ってきました。

 ですが、会津藩士たちが入って来た経過や、余市町において、どんな位置付となっていたのか・・・等々は、町内では、それなりに知られていましたが、その関係の書物としても、町内にはありますが、道内、また、全国的には、発行されていなかった。というのが、現状でした。
黒川町・高橋配管横にある『殉節碑』。昭和12年建立で、白黒写真は建立完成当時の集合写真。ということで、石碑の左には楡の木が写っています。
 

 
 この楡の木は、平成16年に安全のために伐採されています。

 余市に入植した会津藩士たちは、藩校・日新館に学んでいた事もあり、読み書きも出きていたので、道内に移住して、役人、学校の先生になった方も多いのですが、どういう訳か、自身の記録というのは、あまり残さなかった。
 いえ、残っていたのでしょうが、それが外部に出るという事は無かった。そして、時代の流れと共に、自宅の立て替えや引越によって消滅した事により、世に出ていなかったのだろう。と推測しています。

 また、どういう訳か会津若松本国でも余市町の記録は、ほとんど無かった・・・ようです。なぜ、余市町の移住の事が記録に無いのか・・・

 戊辰戦争で破れ、朝敵の汚名を着せられてしまった会津藩。明治新政府は、もっとも危険な会津藩の解体を目指した。
 そして、会津藩の武士たちは、移動させられる事となり、移動先は、青森県の斗南が多かった。
 斗南から北海道に渡った記録はあり、その中で有名なのは、札幌琴似の屯田兵ですが、屯田兵は明治8年以後の話です。
 ですが、余市に入った会津藩士は明治4年と、4年も早かった事になります。

 
平成12年会津若松市の『あいづ総合運動公園』に当家の緋之衣のリンゴの枝が送られ、記念樹となり、その説明看板も設置されています。

 なぜ、余市町の記録が会津本国に無かったのかの理由はわかりませんが、余市町でも、それなりの文章等は発行されていても、それがネット上に流れる。という事も、あまりなかった。
 そして、出所がはっきりしない情報がネット上に乗ってしまい、それが、『事実』として定説となってしまったのではないのかなぁ。と考えています。

 さて、先日、この関係である方を訪ねたら、『以前、学者さんが来て、余市の日新館の石碑を見に来たのだが、いくら『余市の日進館には、石碑など無い』と言っても、『ネットに掲載されている』と譲らなかった』と話して下さいました。

 学者の言われる、日新館の石碑とは、『余市教学所跡』で、浜中町にあります。ですが、明治の初期、余市町には、二つの官立の学校があった。
 一つは黒川郷学所といい、こちらが、会津藩士が作った所であって、もう、一つは、元々、浜中町に寺子屋があったものが発展、余市郷学所と呼ばれていました。
 明治5〜6年当時、官立の郷学所は、札幌資生館、函館、有珠、余市、黒川の5カ所であったといわれており、なぜ、余市町に二つもあったのかは・・・・おそらく、会津の力ではなかったのか。と考えています。

 また、ネット上を見ていて、リンゴの名前を付ける経過についても、「本当?なんか、おかしいなぁ・・・」と感じた事もありました。
現在、山田町にある山田構造改善センター。この場所に、入植当時、学校・練武場がありました。
 
『マッサン』余市編放映にあたり、ステラが発行され、町広報と一緒に町内全戸に配布がされました。配布されたのは、左余市版で、右のステラは会津若松版で、会津若松市で発行されていました。表紙の見た目は同じですが、中身は違いました。

 そんな事もあって、過去に町内で発行された書物を中心に、また、それを年代別に並べて、手持ちの資料を作りました。
 
 まぁ、ネットの方に、掲載する事は無い・・・というか、古文書をひもといて、自分が調べ上げた事ではなく、あくまでも過去の書物を書き出しただけであって、著作権の問題があると思いますし、また、歴史は個人名や個人所有のものがある関係で、マズイ部分もあると思っているからです。

 
会津藩士が入植して、まもない時期に植樹した松。左は美園町の町営墓地。右は山田町にあり、どちらも樹齢160年前後となっています。

 どちらにしても、余市と会津関係について、ネット上でのものは、『それが、すべて事実である』という事ではなく、チヨット、考えてみてほしいものです。


3月28日、マッサン放送最終日にあわせて、福島県内の新聞に全面広告が出されています。

会津若松市の町史、いぇ市史ですね。分厚い本形式ではなく、雑誌形式で発行されています。そして、実は・・・自分の名前も、写真提供者として、掲載されてます。ちなみに、この編に余市町の事が掲載されています。

 
そして、右写真のものが、自分が作成している資料です。この手持ち資料は、現在、校正中というか、確認作業中ですが、完成度が高いと認められれば、会津から視察等に来た方には・・・渡せる・・・かなぁ・・・