独り言 平成23年11月8・12日UP
      
☆北海道仁木商業高等学校閉校式☆

 何かと忙しく・・・・また、どのページにUPしょうかなぁ・・・と考えましたが、まぁ、自分が一応の主催者という事でしたので・・・独り言にUPしました。
 また、12日に新たに写真を追加しました


 さて、平成19年に、自分の出身高校である仁木商業高校の閉校が決定されました。
 最大の要因は、少子化に伴い、高校に限らず、どの学校においても、生徒数の減少が続いている。という事です。
 その中での決定事項としては、北後志の余市高校、古平高校、仁木商業高校の3校、ともに閉校とし、余市高校を母体とする、新設高校を新たに開校させる。
 新入生は平成22年度から新設高校(現紅志高校)のみ募集を行い、余市高校の在学生のみ、新設高校に転校として、古平、仁木に関しては、新入生を取らずに、在校生が卒業した時点で閉校。という事となりました。

 ・・・という訳で、本年度が最終年度となっており、11月5日に閉校式が執り行われました。

校章の由来
 2本のペンは学ぶことの厳しさと労働の苦しみを徹底的に追求し、真の立派な社会人を育成することを示す。
 さらに、鋭敏なペン先は、怠慢になりがちな心をつきさして、自己を目覚めさせ、勉学と労働を両立させるための努力と忍耐力を養うことを示すものである。
                      昭和28年4月18日制定

 
写真では、よく分からないでしょうが・・・式典の主催者ということで、モーニングを用意しました。『黒礼服で白ネクタイですよ』と言われたのですが、黒服は線香の匂いが・・・で、自分の家も古いので、探してもらったら、祖父のものがあって・・おそらく、50年くらい前のものでしょうね。なんたって、重くって、おまけに、ズボンの前はファスナーではなくって、ボタンです。ちなみに、クリーニングに出したら5千円でしたぁ。


 

 
月日 平成23年11月5日 土曜日 
時間・場所
    閉校記念式典 仁木商業高等学校体育館 午前10時〜午前11時
    感謝の集い  ホテル水明閣  午後1時30分〜午後3時30分
主催 北海道仁木商業高等学校閉校記念事業協賛会
     主催者 協賛会長 吉田浩一 (同窓会会長 第28期卒業生)

 
 
 
上4枚の写真は前日の練習時点のものです。生徒玄関の受付も準備万端です・・・

 さて、閉校式というイベントは、そんなに頻繁にある訳でもなく、また、それに立ち会える。立ち会う事が出来る人というのは、そんなに多くはないと考えています。
 そして、だれのために閉校式をやるのか。どうやるのか。という、様々な問題があります。
 正式な閉校の月日は、平成24年3月31日という事になりますが、建物を明け渡す時間的、まぁ、早い話、片付け等があり、また、それをだれがやるのか。という問題もあります。
 さらに、場所柄、車で来る方が圧倒的に多いだろうということもあり、3月という事では除雪の問題もあります。
 それらの背景の中で、雪の降る前、また、行政的にも比較的時間がある時期という事で、11月を選択しました。

 

 そして、一番の課題である、『だれが主体となるべきなのか。だれのための閉校式なのか』という事を考えた時、閉校というのは特別な事柄であり、その主体は、やはり、ここで学んだ生徒と先生、また、歴代のPTAの役員の方々であろうと考えました
 つまり、早い話、卒業生、元の教職員、歴代のPTAの役員、お世話になった仁木町のために行う』という事を決めました。

 仁木商業の卒業生は5300名を越えており、一口に『卒業生のために』と言っても、簡単に出来る訳でもなく、まずは卒業生簿の作成から入りました。
 幸いにして、50周年までの名簿がありましたが、近年、名簿の取り扱いについては、個人情報の関係があり、名簿作成については、様々な意見があるのは事実です。
 ですが、これ以上、卒業生が増える訳でもなく、また、この時点で、同窓会としても、資金がある程度あった事もあり、在校する生徒の氏名も含め、名簿発行をする事にしました。尚、住所に関しては、掲載は個人の希望があった方のみ。また、卒業してあまり年月の経過していない卒業生に対しては、住所の掲載はしない事として、発行する事にしました。
 そして、この作業には1年以上前から入り、本年5月頃には完成。旧職員や旧PATの役員を含め、該当者数は約6000名という事となりました。


 
         
当日はPTAの皆さんにお手伝いを頂きました。

 
北海道教育委員会、並びに、管内の道議会議員、管内の町村長・教育長の方々にお運びを頂きました。


 さて、最近、閉校した高校に関しては『地元に住んでいるにもかかわらず、案内すら無かった』という事も耳にしていました。
 それは当然といえば、当然の話しでしょうし、仁木商業の場合は、最初から『卒業生のために』という事でがあったので、6000名の中で4000名の住所が判明した事により、この4000名全員に、『11月5日に閉校式を行います。出席希望の方は、連絡を下さい』とハガキで案内をしました。
 そして、連絡があった方に正式な案内状を送付。当日、式典には300名、午後の感謝の集いでは200名を越える方々にお集まりを頂きました。
 当然、『案内は来なかった』とお叱りを受ける事もあるとは思っておりますが、ご容赦を頂きたく、また、少なくとも、出来る範囲で案内をしたと思っています。尚、名簿上に住所不掲載を希望された方には案内はしておりません。


 
     
学校長式辞、北海道教育委員会挨拶と続き・・・・

 
協賛会長としての挨拶となりました。昔とは生徒会の役員として、ステージに上がっていたのでしたが、学校のステージに上がったのは・・・30年振という事になりました。
何を考えて挨拶をしていのか・・・ですが、学校のステージって、こんなに高かったんだなぁ。とう思いと、昔の事を思い出しながら、挨拶をしていました。



 さて、仁木商業の歴史の中で、初期から中期までは、子供も多かった事、また、時代的に、発展期であった事から、高校としも、様々な面で発展してきました。
 ところが昭和から平成になる頃から、将来における少子化が懸念されるようになりました。そして、現在の鉄筋コンクリートの新校舎は3間口・120名として設計、平成3年に完成したのですが、その後、2間口の80名に削減されてしまいました。
 ですが、仁木としては、新入生の応募状況としては、倍率としては常に1.0を越えていました。

 そして、平成10年前後から、本格的に高校の閉校についても議論がされるようになりました。
 私は平成8年から7代目の同窓会長職を預かっており、北海道が主催する、高校間口に関する会議にも、数度、参加した事もありました。
 また、同窓会の事業として、高校存続のために、仁木町にも全面協力を頂き、高校存続のための平成16年と平成19年の2回、シンポジュウムを開催、地域からの意見も頂いたつもりでした。

 それまでの道内での高校閉校に関しては、同一市町村内での統廃合となっていました。つまり、市内で普通科高校と職業科高校があった場合、その合併はありましたが、町村間をまたいでの統廃合としては、北後志が初めてのケースでした。
 
 そして、北後志には3高校、余市高校、古平高校、仁木商業高校とがありましたが、当時から、どの高校も一長一短があったと感じていました。


 
その後、卒業生でもある三浦町長の挨拶と続き・・・

 
私から、歴代の役員の方々に感謝状の贈呈、そして、学校長から、私にも感謝状を頂きました。


 古平高校は、地域としては、古平より奥地があり、ここから通学している生徒もいます。 私が平成11年に初めて議員になった時、初議会で、初めての一般質問が、高校存続の問題でした。
 その当時、積丹町に教育委員会に電話をしたら『小樽まで80キロを通学している生徒もいます』とのことでした。
 その生徒は冬場は下宿をしていたそうですが、つまり、古平高校は、通学するという行為を考えれば、残さなければならない高校でした。
 しかしながら、生徒数においては、かろうじて1間口を確保出来るだけであり、将来的にも生徒が増える要素は無かった。

 仁木商業は、2間口となっていましたが、常に1.0の倍率を確保していた。通学の利便性としては、JRからも近かった。
 しかしながら、商業高校としては、小樽商業の方が高校規模としては大きかったし、また、地元の仁木町中学校からの進学が多くはなかった。


 余市高校としては、平成10年頃まで、普通科・園芸科を合わせて6クラス(?)がありましたが、その後、様々な問題が発生し、新入生が激減。毎年、自動的に間口が削減され続け、一時、新入生が20名を切ってしまった。
 3町全体として見れば、中間地点となるが、高校の場所としては、けっして利便性が良い訳でない。


 まぁ、そんな事があって、特に、仁木商業としは、『一定程度の新入生を確保し続けているのに、何故、閉校の対象となるのか?』という気持ちが強かったです。

 余市高校で新入生が20名を切った事がありましたが、本来の規程では20名を切った場合、翌年は募集停止をする。という規程があったものの、翌年も生徒募集がされていました。
 20名を切ったのが何年だったのかは、正確には覚えていませんが、平成17〜18年度ではなかったと記憶しています。
 つまり、余市高校を母体校として残す事は、早い時点で、政治決断として行われており、既製路線であったと考えられます。


 そして、最終的に閉校が決定したのが、平成19年の年でしたが、それとは別に、道議会でも、仁木商業に関しても『問題あり』と発言した議員がいたようで、その関係なのかどうかは解かりませんが、就任して1年で、また、校長・教頭が同時に移動となった時と重なっていました。
 これらは、総て平成19年に起こった出来事であり、それがあって、平成19年に閉校が決定された訳ではないでしょうが、やはり、釈然としないものがあります。


 
 生徒の挨拶では、閉校を迎えるにあたっての心境が良く表れており、感動と共感を誘っており挨拶後、自然と拍手が起こりました。その後の校歌斉唱では、私は、込み上げるものがありました。

校 歌  作詞 和田謹吾   作曲 上元芳男
 1.緑に匂う山峡に    みどりに におう やまかいに
   豊けき今日を拓き来し ゆたけき きょうを ひらききし
   創造のあと偲ばずや  そうぞうのあと しのばずや
   希望輝くこの大地   きぼう かがやくこのだいち
   梢に映ゆる実の影に  こずえにはゆる みのかげに
   稔りし誠ここに満つ  みのりしまこと ここにみつ
   わが学舎 仁木商業  わがまなびや にきしょうぎょう
 2.流れも清き余市川   ながれも きよき よいちがわ
   静かに憩ふ水の辺に  しずかに いこう みずののべに
   心の鑑磨かずや    こころの かがみ みがかずや
   行く途に荒き日本海  ゆくてに あらき にほんかい
   神威の岸の岸壁に   かむいの きしの きりぎしに
   競はむ叡知ここに冴ゆ きそわん えいち ここにさゆ
   わが学舎 仁木商業  わがまなびや にきしょうぎょう
 3.紫霞む羊蹄を     むらさき かすむ ようていを
   稲穂の嶺に仰ぎ見て  いなほの みねに あおぎみて
   遠き未来を語らずや  とおき みらいを かたらずや
   風雪凌ぐ山脉に    ふうせつ しのぐ やまなみに
   若き眸をさしむけて  わかき ひとみを さしむけて
   貫く理想ここに立つ  つらぬく りそう ここにたつ
   わが学舎 仁木商業  わがまなびや にきしょうぎょう






同窓会名簿は販売しております。記念誌は『遠き未来を語らずや』で校歌の歌詞の一節です。
 
今回の式典における記念品としては、記念誌『遠き未来を語らずや』を発行し、それを記念品と致し、式典参加者の方全員にお配りしました。


 


 『感謝の集い』での私は、この部分に関して、以下のように挨拶をさせて頂きました。

「それら総ての背景の中で、政治的判断によって、余市高校を母体校として残すという事が決定されたと感じておりますが、少なくとも、常に2間口の新入生の応募がある仁木商業が何故故に閉校となるのか、その理由については、だれからも説明がされなかったというか、私は、その理由を聞いておりません。
 とは言うものの、過ぎてしまった事であり、その決定が戻る訳でもありませんし、少なくとも、仁木商業、また、来週には古平高校の閉校式も行われ、思いは同じだと推測していますが、閉校に納得している訳ではなく、北後志の地域としての高校をどうするのか、未来に向けた中で、それを甘んじて受けた。という事を、北海道の関係者の方々は認識してほしい。と感じており、関係者の方には、この地域の高校教育には万全を期して頂きたい。ということを要望させて頂きます。」


 

 ちなみに、この挨拶に関しては『かなり厳しい挨拶でしたね』と『良く、言ってくれた』という二つの評価がよせられました。
 さて、仁木商業の今後というか、平成24年4月1日以降の校舎の扱いですが、『感謝の集い』での私は、この部分に関して、以下のように挨拶をさせて頂きました。
「なお、現在の校舎につきましては、仁木町で、その活用方法を検討中と聞き及んでおりますので、高校は無くなるのでしょうが、我々の汗と涙が染み込んだ建物は、今後も新たな歴史を刻んでくれるものと考えており、また、本校卒業生でもあります、三浦町長にも、くれぐれも宜しくお願い申し上げます」
 ちなみに、解体の場合は、解体費だけで1億円が必要と言われています。


 
感謝の集いの挨拶は、自分と三浦町長、学校長の3名の挨拶のみでした。

 さてさて、どいう形であれ、また、年齢を重ねようとも、昔、同窓や元の担任に会えば、その時代に戻るものではないでしょうか。
 今回の出席者を分類すれば、元も含め、教職員の方がもっとも多く80名くらい?おられました。卒業生も、遠くは東京からの出席。また、10期代の卒業生から、50期代の卒業生と、幅広く集まって頂けました。
 当然、盛り上がりとしては、最大級であった事が、主催者としては、大変良かった。と感じました。

 

 また、感謝の集いの中では、昭和40年代からの写真を使った約20分のスライドも作ら、感謝の集いの中で放映されました。

 今回の一連の式典の中で、もっとも良かったのは、式典の中の在校生の挨拶でした。無論、挨拶だけではなく、3年生だけとなってしまいましたが、校舎内外の清掃を含め、裏方の一切を行ってくれていました。

 
         
最後は3本閉めとなって閉会となりました・・・・

 62年間には感謝申し上げますと共に、卒業生の皆様におかれましては、母校は無くなってしまいますが、「最後まで誇れる高校であった」事を、お伝え致します。

 
式典は6ページ、感謝の集いは4ページのしおりとなっており、表紙と裏はカラーでした。
 
 尚、仁木商業同窓会については、紅志高校同窓会とは同一歩調は取らず、独立して存続させる事となっており、閉校後の事務局としては、当面の間、私、個人の自宅としますので、何か要望等がございましたらお寄せ下さい。



『閉校式典』おいて、協賛会長として以下の挨拶をさせて頂きました。

「 閉校に当たり、ご挨拶申し上げます。
 本日は、大変お忙しい中、北海道教育委員会委員 鷹野正義様、仁木町三浦町長様を始めとした、北後志の各町村長・教育長の皆様、並びに関係各位の皆様方には、大変お忙しい中、お集まりを頂きました事。高い所からではございますが、衷心より厚くお礼申し上げます。ありがとうございます。

 本校の歴史につきましては、先程、学校長が式辞の中で申し上げましたように、昭和25年に、地域の圧倒的な要望によって開校、爾来、62年間に渡たり、地域に根差した教育を実践して参りました。

 開校当時は、戦後の混乱期からようやく脱した頃であり、地域の復興と活性化を目指していた中での開校であって、正に未来への希望の星の誕生であったと推測されます。
 しかしながら、時代は流れ、昭和から平成へと移り、その頃から、将来における少子化が懸念されるようになり、平成10年前後から本格的に閉校に関し議論がされ始めましたが、これは、高校だけに留まらず、全ての学校において、統廃合が進められる時代となってしまいました。

 その中で、本校における地域への貢献度については、誇れる実績を残して来たと自負しております。
 これは、学業だけに止まらず、各クラブ活動でも、全国大会への出場を果たしたクラブもありましたし、特に、平成3年度以後、間口減となり、全校6クラスとなった中でも、野球部の全道大会への出場も数度に渡っておりました。
 輝かしい歴史と伝統を刻んで参りましたし、卒業時点の資格取得においても、各検定試験1級取得者も多数輩出して参りました。

 これは、その時々の生徒の頑張りは無論の事、教職員・地域が一体となって、初めて可能であった事だと考えております。
 その中で、特に本校の場合、『仁木高校は道立でも町立でもなく、PTA立である』と言われておりました。これは、地域と保護者が様々な面で積極的に高校とかかわる事であり、それは現在でも続いております。
 今や仁木商業の名物となりました行灯行列では、PTA・教員の山車も作られ、また、町内メイン通りのパレードにおいては、沿線住民の見学者の方を審査員として参加を頂く等、正に地域一体の行事として仁木町にも定着してきたのではないでしょうか。

 それら総ての経過を見たとき、どの高校でも生徒減に苦慮する中、一定程度の生徒の確保も出来ておりましたし、また、卒業時点の進路についても、厳しい時代の中、地元を中心に多くの方々のご理解を頂いていた事、さらには、卒業生も常に努力を怠らず、地元・地域の企業に根差し、その地域を支える人材となっていることは間違いなく、総てが、仁木という高校を支える力となっていたと私は考えております。

 よもや、このような日が来ることなど、考えてもおりませんでしたが、時代の波には逆らうことが出来ず、本日を迎えることとなってしまいました事は、誠に無念としか、申し上げられません。

 60年前と比較し、校舎の窓から見える田園風景と四季折々の風景は、今も昔もさほど変わっていないのではないかと感じておりますし、また、生徒の気質や地域の方々の協力もまた、今も昔も変わっていない。と私は感じております。

 誠に残念ではございますが、平成24年3月1日に区切りの第60期卒業生を送りだし、同年3月31日を持ちまして、62年間の歴史に幕が閉じられる事となりました。
 総ての方々に対し、感謝とお礼を申し上げますと共に、また、在校の3年生諸君にとっては、最期の卒業生という誇りと自覚を持って社会に旅立って行かれる事を熱望致し、ご挨拶とさせて頂きます。
 皆さん、本当にありがとうございました。
 
 平成23年11月5日 

 北海道仁木商業高等学校
  閉校協賛会 会長・本校第28期卒業生 吉田浩一  」




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